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婚約者から溺愛されて逃げられません 〜悪役令嬢に転生したので破滅回避したいのに、なぜか最推しの公爵令息が離してくれない〜  作者: 碓氷さゆ
第一章 近すぎる距離

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第24話 戻る場所、見つめる先

 会場へ戻ると、先ほどまでよりも空気が少し柔らかく感じられた。


 もちろん、実際に場の緊張が解けたわけではない。王族、高位貴族、推薦生、特待生。誰もが互いの立場を見て、言葉を選び、微笑みの奥で距離を測っている。華やかな茶会のように見えて、ここは学園生活が始まる前の最初の社交の場だ。気を抜けば、たった一言が後々まで残ることもある。


 けれど、ミトの呼吸は先ほどより楽だった。


 庭で風に触れたからかもしれない。レオンハルトに「それでいい」と言われたからかもしれない。リリアを名簿やゲームの中の存在ではなく、緊張する一人の少女として見られたからかもしれない。


 完全に平気になったわけではない。


 それでも、逃げずに戻ってこられた。


 その事実が、胸の奥で小さく光っている。


「ミト」


 エヴァルドが近づいてきた。穏やかな表情はいつも通りだが、目だけが少し心配そうだった。


「大丈夫?」


「はい。少し休んだので」


「戻ってこられたね」


「はい」


 短い言葉なのに、胸に沁みた。


 戻ってこられた。


 そう言ってもらえるだけで、逃げなかった自分を少し認められる気がする。


「お兄様」


「うん?」


「リリア様と、お話ししました」


「うん。見ていたよ」


「思っていたより、普通の女の子でした」


 エヴァルドは少しだけ目を細める。


「そう」


「緊張していて、でも礼は丁寧で、努力を見てほしい方なのかもしれないと思いました」


「ミトは、ちゃんと見られたんだね」


「少しだけです」


「少しで十分だよ。最初から全部分かる人なんていないから」


 その言葉に、ミトは頷いた。


 最初から全部は分からない。


 だから、決めつけない。


 今日のリリアとの会話は短かった。けれど、短いからこそ分かったこともある。彼女は光属性だけで見られることに、少し疲れているのかもしれない。努力を認められたことに、驚き、そして安心したように見えた。


 それはゲーム画面の中では分からなかったことだ。


「お兄様」


「うん」


「私、リリア様を怖がっていたのだと思います」


「うん」


「でも、リリア様もきっと怖いのですわ」


「そうだね」


「それに気づいたら、少しだけ……怖さの形が変わりました」


 怖くなくなったわけではない。


 ただ、一方的に奪われる未来を恐れるだけではなくなった。


 彼女にも彼女の不安がある。事情がある。望みがあるかもしれない。なら、まずはそれを見なければならない。


 ミトが悪役令嬢という役割だけではないように。


 リリアもまた、ヒロインという役割だけではないのだから。


「いい変化だと思うよ」


 エヴァルドは静かに言った。


「でも、無理に近づきすぎなくていい。怖さが完全に消えたわけじゃないなら、距離を測りながらでいいんだ」


「はい」


「それも、自分で選べばいい」


 自分で選ぶ。


 今日、何度も胸の中で確かめた言葉だ。


 ミトは小さく頷いた。



 交流会の後半は、自由歓談の時間に移った。


 最初の形式的な挨拶が終わり、生徒たちは少しずつ小さな輪を作り始めている。家格の近い者同士、同じ科に進む者同士、すでに顔見知りの者同士。自然に生まれる人の流れの中で、ミトは会場の端に立ち、周囲を観察していた。


 リリアは、学園側の案内役に促されながら、数人の令嬢と話している。


 緊張はしているが、先ほどより少し落ち着いているようだった。会話の相手が何か言うと、リリアは真剣に頷き、丁寧に答えている。時折、困ったように笑う。その笑顔は、ゲームで見た“ヒロインの笑顔”というより、慣れない場で必死にやり取りしている少女のものだった。


 その近くへ、セシルがふわりと近づいていく。


 ミトは思わず目を細めた。


(セシル様……)


 先ほどの会話からして、彼は距離の詰め方がうまい。人懐こく、明るく、相手の警戒を軽くほどいてしまう。リリアのように緊張している相手には、きっと話しやすい存在に見えるだろう。


 事実、セシルが笑顔で何かを言うと、リリアの表情が少し和らいだ。


 その光景を見た瞬間、胸の奥が小さくざわめいた。


 ゲームの場面が、少しだけ重なる。


 攻略対象がヒロインへ近づく。


 ヒロインがほっとしたように笑う。


 何もおかしくない。むしろ、自然な光景だ。けれど、ミトの中ではそれが“物語の進行”のように見えてしまう。


 指先が、無意識にバッグの紐を握った。


「怖いか」


 隣から声がした。


 カイルだった。


 いつの間に近くに来ていたのか、少し離れた位置に立ち、同じ方向を見ている。


「……少し」


 ミトは正直に答えた。


「リリア様が怖いというより、ああして誰かと話しているところを見ると、物語が進んでいるように感じてしまって」


「進んだら困るのか」


「困る未来に繋がるなら」


「今のは困るやつなのか」


 ミトは答えに詰まった。


 セシルがリリアと話している。


 それだけだ。


 セシルは社交が得意で、リリアは緊張している。彼が話しかけるのは自然だ。そこでリリアが少し安心したとしても、それは悪いことではない。


 なのに、ミトはざわついた。


 それは、リリアが悪いからではない。


 自分が知っている物語に、勝手に当てはめてしまったからだ。


「……まだ、分かりません」


「じゃあ決めんな」


「はい」


「見てろ」


 雑な言葉。


 でも、今はそれが必要だった。


 見て、決める。


 決めつけない。


「カイルは、リリア様とお話ししました?」


「まだ」


「これから?」


「たぶんな。騎士科の方で挨拶があるかもしれねぇし」


 そう言われた瞬間、ミトの胸がまた少し揺れた。


 カイルも、リリアと話す。


 ゲームでは当然のことだった。彼も攻略対象なのだから。けれど現実でそれを目にするとなると、別の感情が混じる。


 これは何だろう。


 不安。


 警戒。


 それとも。


 ミトは考えかけて、慌てて止めた。


 今、その感情を深掘りするのは危険だ。


「どうした」


「いえ。カイルも、普通にお話しすればいいと思います」


「何だそれ」


「普通に、です」


「お前が一番普通を難しくしてるだろ」


「否定できませんわ」


 カイルは少しだけ笑った。


「まあ、話す機会があれば話す。なければ話さねぇ。それだけだ」


「それだけ」


「ああ」


 単純だ。


 でも、そうなのかもしれない。


 すべてをイベントとして考えるから苦しくなる。会話が発生すれば好感度が動く。選択肢を間違えればルートが変わる。誰かが誰かを見れば、未来が決まる。そんなふうに考えてしまうから、何もかもが怖くなる。


 けれど現実は、もう少し曖昧だ。


 話す機会があれば話す。


 なければ話さない。


 それだけのこともある。


「カイル」


「あ?」


「ありがとうございます」


「何が」


「また少し、普通に戻れました」


「それ褒めてんのか?」


「褒めています」


「分かりにくいな」


「お互い様ですわ」


 そう返すと、カイルは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。



 自由歓談が進む中、ミトは何度かリリアと視線が合った。


 そのたびに、リリアは少し緊張したように微笑む。ミトも礼を返す。まだ近づいて長く話すほどではない。けれど、避けることはしなかった。


 それだけでも、今日のミトには十分だった。


 やがて、学園側の教師が小さな鐘を鳴らした。


「皆様、本日はご参加いただきありがとうございます。これより、入学前の簡単な説明を行います。各科の推薦生、特待生、ならびに代表生徒の皆様には、後ほど別室にて補足説明がございます」


 代表生徒。


 その言葉に、ミトはわずかに反応した。


 第一王子であるレオンハルトは当然呼ばれるだろう。特待生代表であるリリアも呼ばれる。魔術科推薦のルシアン、社交科推薦のセシル、騎士科のカイルも関わる可能性がある。


 つまり、攻略対象たちとリリアが、別室で顔を合わせる。


(……イベントの匂いがしますわ)


 非常にする。


 ミトは表情を保ちながら、内心で警戒した。


 しかし、ここで動揺してはいけない。そもそも学園側の説明である。代表生徒や推薦生が別室で補足を受けるのは不自然ではない。すべてをイベント扱いしてはいけない。


 そう思った瞬間、教師の視線がこちらへ向いた。


「ローゼンクランツ様も、魔術および剣術訓練の履修候補者として、ご参加をお願いできますか」


 ミトは固まった。


「……私も、ですか?」


「はい。二属性適性と剣術実績について、事前確認が必要とのことです」


 周囲の視線が集まる。


 ミトは自分の背筋が自然と伸びるのを感じた。


 二属性適性。


 剣術実績。


 避けたかった言葉が、会場に出てしまった。


 目立った。


 かなり目立った。


 ミトは一瞬、逃げたい衝動に駆られた。庭へ出たい。休憩場所へ行きたい。いや、これは休憩ではなく逃走だ。駄目だ。


 深呼吸。


 周りを見る。


 自分は一人ではない。


 レオンハルトが少しだけこちらを見る。エヴァルドも、穏やかな表情のまま頷いている。カイルは腕を組み、目だけで「落ち着け」と言っているように見えた。


 ミトは息を吸い、教師へ向き直る。


「承知いたしました」


 言えた。


 逃げずに。


 会場のどこかで、小さなざわめきが起きる。


 リリアも、こちらを見ていた。


 その瞳に浮かんでいたのは、羨望でも敵意でもなかった。


 驚き。


 そして、少しの興味。


 ミトはその視線を受け止めながら、胸の奥で静かに思う。


(目立ち方を選ぶ)


 これは、避けられない目立ち方かもしれない。


 けれど逃げる必要はない。


 自分で決めたのだ。


 剣術訓練を取ると。


 魔術を隠しすぎないと。


 ならば、ここで背を丸めるわけにはいかない。


 ミトはゆっくりと礼をした。


「よろしくお願いいたします」



 補足説明のため、呼ばれた者たちは小ホール横の控え室へ移動することになった。


 レオンハルト、ミト、リリア、ルシアン、セシル、カイル。それから数名の推薦生。見事に、ミトが警戒していた面々が揃っている。


(どうしてこうなりますの)


 いや、理由は分かる。


 それぞれが代表や推薦枠だからだ。物語の都合ではなく、学園の仕組みとして自然なのだ。


 自然なのに、あまりにも揃いすぎている。


 ミトは内心で頭を抱えたかったが、表情はどうにか保った。


 隣を歩くレオンハルトが、低く言う。


「顔に出すな」


「出ています?」


「少し」


「努力します」


「悪役令嬢宣言もするな」


「しません」


「木にも登るな」


「控え室に木はありません」


「なら問題ない」


 会話の内容がひどい。


 だが、そのおかげで少し緊張がほぐれた。


 控え室の扉が開く。


 中には、長いテーブルと椅子が用意されていた。壁際には資料が積まれ、学園の教師たちが数名待っている。大きな窓から庭が見えるが、外へ出る扉はない。


 逃走経路は少ない。


 いや、休憩場所である。


 ミトは自分に言い聞かせた。


 席順は学園側が決めていた。


 上座にレオンハルト。その近くにミト。向かい側にリリア。少し離れてルシアンとセシル。カイルは護衛兼騎士科推薦として壁際寄りの席。


 近い。


 リリアが、思ったより近い。


 ミトは椅子に腰を下ろし、姿勢を整えた。


 リリアも向かい側で緊張した様子で座る。目が合うと、彼女は小さく会釈した。


 ミトも会釈を返す。


 敵ではない。


 まだ、何者か決めなくていい。


 まずは見る。


 教師が説明を始めた。


「皆様には、入学前にいくつか確認していただきたい事項がございます。まず、代表生徒としての行事参加について。次に、特待生および推薦生の補助制度について。そして、魔術・剣術実技に関する事前確認です」


 資料が配られる。


 ミトは紙面に目を落とした。


 代表生徒交流演習。


 特待生支援制度。


 魔術属性確認。


 剣術基礎評価。


 その文字を見た瞬間、ミトの中で小さな警鐘が鳴った。


 交流演習。


 ゲームで、似た名前のイベントがあった。


 ヒロインが攻略対象たちと初めて共同課題を行う、序盤の重要イベント。そこでリリアは光属性の力を示し、攻略対象たちに印象を残す。ルートによって相手は変わるが、ここで好感度が動き始めるのだ。


 ただし。


 ゲームのイベント名は、たしか別の言葉だった。


 完全に同じではない。


 でも、近い。


 ミトは資料を見つめたまま、指先に力を込めた。


(これは……来ましたわね)


 物語の入口。


 その最初の扉が、目の前で音を立てて開き始めている気がした。


 逃げるためではなく、会うために来た。


 そう自分に言い聞かせたばかりだ。


 けれど、会った先には、やはり物語が待っている。


 ミトはそっと息を吸った。


 決めつけない。


 でも、見逃さない。


 この世界はゲームと同じではない。


 けれど、完全に無関係でもない。


 ならば必要なのは、恐れて目を逸らすことではなく、違いを見つけることだ。


 リリアを見る。


 周囲を見る。


 自分を見る。


 ミトは資料の端を押さえ、静かに顔を上げた。


 向かい側で、リリアも同じ資料を見つめていた。彼女の表情には、緊張と不安がある。そして、ほんの少しの期待も。


 ミトはその顔を見て、胸の奥で小さく呟いた。


(あなたは、この物語をどう歩くのですか)


 まだ、答えは分からない。


 けれど、今日初めて、ミトはリリアの未来を恐れるだけではなく、知りたいと思った。


 そして同時に、自分の未来も。


 教師の説明が続く中、ミトはペンを取った。


 資料の端に、小さく書き込む。


 代表生徒交流演習――要確認。ゲームと違う可能性あり。


 その文字は小さく、誰にも見えない。


 けれどミトにとっては、確かな一歩だった。


 物語は始まったのかもしれない。


 それでも、まだ結末は決まっていない。

【お知らせ】

本作は設定再構築のため、しばらく更新を休止します。

主人公名・キャラクター設定・物語構成を見直し、改稿版または新規作品として投稿する可能性があります。

詳しくは活動報告をご確認ください。

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