第17話 その名を呼ぶ前に
交流会当日まで、あと六日。
そう数えた翌朝から、屋敷の空気はほんの少しだけ変わった。大きく騒がしいわけではない。使用人たちはいつも通り静かに動き、朝食はいつも通り完璧な温度で用意され、廊下も庭も美しく整えられている。けれど、その整い方の中に、いつもよりわずかな緊張が混じっていた。
入学前交流会は、ただの顔合わせではない。王立アルディシア学園へ入学する予定の生徒たちが、正式な入学式より前に互いを知るための場だ。王族、高位貴族、推薦枠、特待生。集められる顔ぶれを考えれば、軽い茶会のように見えて、実際にはこれから始まる学園内の関係図を作る最初の場所でもある。
つまり、失敗したくない。
それは貴族令嬢として当然の感覚だった。
けれどミトにとっては、少し違う。
(ここで変なフラグを立てたら終わりですわ)
朝食の席で紅茶を飲みながら、ミトは心の中で真剣に頷いた。交流会にはリリアが来る。レオンハルトも来る。カイルも参加予定だ。名簿を見る限り、ルシアンとセシルもいる。攻略対象とヒロインが入学前に揃う場。どう考えても、何も起きない方が不自然である。
だからこそ、慎重に動かなければならない。
目立ちすぎない。
逃げすぎない。
近づきすぎない。
決めつけない。
木には登らない。
最後の一つだけ少しおかしい気もするが、念のためである。
「ミト」
向かい側からエヴァルドが呼ぶ。
「はい」
「今、かなり真剣な顔をしていたけど、何を考えていたの?」
「交流会で木に登らないための心構えです」
エヴァルドは一瞬だけ黙った。
「……なぜ交流会で木に登る可能性があるのかな」
「可能性は常に考慮すべきかと」
「考慮しなくていい可能性もあるよ」
「お兄様もカイルと同じことをおっしゃいますのね」
「その件に関しては、カイルが全面的に正しいと思う」
兄が騎士見習いと意見を揃えてきた。
ミトは少しだけ不満だったが、反論はできなかった。過去に降りられなくなった事実がある以上、説得力で負けている。
「登りませんわ」
「うん。約束」
「約束するほどですの?」
「するほどだね」
エヴァルドの笑みは穏やかだったが、そこに一切の譲歩はなかった。
ミトは仕方なく頷く。
「分かりました。交流会では木に登りません」
「交流会以外でも、できれば登らないでほしいかな」
「努力します」
「そこは約束してくれないんだね」
「未来は不確定ですもの」
エヴァルドは小さく息を吐いた。困ったような、けれど少しだけ楽しそうなため息だった。
こういう何でもない会話があると、ほんの少しだけ怖さが薄れる。交流会も、リリアも、学園も、未来も。すべてが重くのしかかってくる前に、少しだけ息をつける。
たぶん、今のミトにはそれが必要だった。
◇
朝食後、ミトは自室で交流会用のドレスを確認していた。
ローズラベンダーのドレスは、仕立て途中にもかかわらず十分に美しかった。柔らかい色合いなのに甘すぎず、胸元の薔薇の刺繍は控えめで、袖も裾も動きやすい。髪飾りは薄い銀の小さな薔薇細工。選んだときは少し迷ったが、こうして並べてみると悪くない。
ただ、問題が一つある。
(銀色……)
鏡の前で髪飾りを当てながら、ミトは少しだけ眉を寄せた。
薄い銀。上品で、ドレスに合う。派手すぎず、地味すぎず、交流会にもふさわしい。そう判断して選んだ。間違っていない。
けれど、どうしてもレオンハルトの髪色を思い出してしまう。
あの淡い銀の髪。光を受けると白にも見える、冷たくて綺麗な色。十歳の頃から何度も見た。薔薇園で、温室で、廊下で、応接室で。逃げても逃げても、必ずその色が視界に入った。
「……違いますわ」
ミトは鏡の中の自分に向かって言った。
「これは単に、ドレスに合うから選んだだけです」
鏡の中のミトは、少し疑わしげな顔をしていた。
自分の顔なのに、なぜ疑ってくるのか。
「本当です」
もう一度言う。
すると、背後で侍女が控えめに微笑んだ。
「とてもお似合いでございます」
「ありがとう」
「銀の髪飾りが、第一王子殿下のお色と重なって素敵ですね」
ミトは固まった。
侍女は悪気なく言っている。むしろ褒めている。婚約者同士として、色をさりげなく合わせるのは貴族社会では好意的に受け取られることもある。
けれど今のミトには、心臓に悪すぎた。
「……偶然ですわ」
「左様でございますか」
「偶然です」
「はい」
侍女はそれ以上何も言わなかった。
良い侍女である。
ただし、微笑みが少しだけ優しい。
おそらく信じていない。
ミトは鏡から視線を逸らした。
(違うのです。本当に、ただ似合うと思っただけで)
心の中で弁明してみる。
けれど、胸元には昨日選んだ紺地のリボンもある。レオンハルトに似合うと言われたリボン。大事にすればいい、と言われたリボン。それを制服用に仕立て直すことになっている。
こうして見ると、少しずつ逃げ道が減っている気がした。
いや、逃げ道が減っているのではない。自分で選んだものが、レオンハルトに繋がっているだけだ。
それはそれで問題ではないだろうか。
「お嬢様?」
「何でもありません」
ミトは髪飾りをそっと箱へ戻した。
交流会でこの髪飾りをつける。
その事実だけで、少し緊張する。
でも、自分で選んだのだ。
なら、胸を張らなければならない。
たぶん。
◇
午後には、レオンハルトから手紙が届いた。
正確には、王家の使者が届けた正式な書簡である。婚約者同士のやり取りとしては珍しいものではない。けれど、封筒に押された王家の紋章を見ただけで、ミトの背筋は自然と伸びた。
机の前に座り、封を開ける。
中の文字は、レオンハルトらしく整っていた。余計な飾りがなく、読みやすく、必要なことだけが書かれている。
交流会当日の到着時刻。
会場での立ち位置。
王族としての簡単な挨拶。
婚約者として、最初の挨拶はミトと交わす予定であること。
その後、参加者との交流に移ること。
内容は実務的だった。
実務的だった、はずなのに。
最後の一文で、ミトの手が止まった。
『当日は、無理に誰かと親しくする必要はない。ただし、怖いものから目を逸らすな。君が確認したいものは、私も確認する』
短い。
甘い言葉ではない。
なのに、胸に残る。
「……またこういうことを」
ミトは手紙を机に置き、額に手を当てた。
守る、とは書いていない。傍にいる、とも書いていない。ただ、確認すると書いてあるだけだ。レオンハルトらしい。あまりにも彼らしい。
けれど、ミトは分かってしまう。
それは彼なりの“傍にいる”なのだと。
(よくありませんわ)
こんなふうに理解してしまうのは、よくない。
距離を取りたいはずなのに。学園ではリリアが現れるのに。第一王子であるレオンハルトが本来どの道へ進むのかも分からないのに。
それでも、手紙の言葉は頼もしかった。
怖いものから目を逸らすな。
君が確認したいものは、私も確認する。
ミトは何度かその一文を読み返し、深く息を吐いた。
返事を書かなければならない。
礼を述べ、当日の確認をし、必要なら短い言葉を添える。それだけだ。それだけなのに、筆を取る指先が妙に緊張する。
しばらく悩んでから、ミトは白い便箋に向かった。
『ご連絡ありがとうございます。当日は、ご迷惑をおかけしないよう努めます。私も、目を逸らさずに確認いたします』
そこまで書いて、止まる。
少し硬すぎる気がする。
だが、婚約者への手紙としては問題ない。むしろこのくらいでいい。変に柔らかくすると、距離が近くなる。近くなると危険だ。
ミトはもう一文だけ加えるか悩んだ。
数分迷い、結局書いた。
『けれど、もし私がまた逃げそうになっていたら、そのときは見つけてくださいませ』
書いた瞬間、顔が熱くなった。
「……これは、駄目では?」
あまりにも頼っている。
しかし消すのも違う気がした。これも、今のミトの本心だ。逃げたい。けれど、完全に見失われたいわけではない。もし逃げそうになったら、見つけてほしい。十歳の頃からずっと、そうだったのかもしれない。
ミトはしばらく便箋を見つめ、最後に小さく頷いた。
これでいい。
自分で書いたのだから。
◇
手紙を封じたあと、ミトは小箱を開けた。
木苺のタルトの包み紙。紺地の仮リボン。学園で確認することを書いた紙。そこに、レオンハルトからの手紙を入れるかどうか、少し迷う。
入れたら、特別になってしまう。
すでに十分特別ではないのか、という声が心の中で聞こえたが、ミトは聞こえなかったことにした。
結局、手紙そのものは入れず、返事を書き損じた小さな下書きだけを折りたたんで入れた。
それでも十分に意味がある。
逃げそうになったら、見つけてください。
自分で書いたその言葉が、少しだけ恥ずかしく、少しだけ心強い。
「……私は本当に、何をしているのでしょう」
悪役令嬢を目指していたはずである。
嫌われるために逃げていたはずである。
それなのに今は、逃げそうになったら見つけてほしいなどと書いている。
悪役令嬢としては大失敗だ。
だが、ミトとしてはどうなのだろう。
その答えは、まだ出ない。
◇
夕方、庭へ出ると、カイルがいた。
訓練帰りなのか、赤い髪が少し乱れている。袖を軽くまくり、腰には剣を下げていた。庭の端に立ち、何かを確認するように周囲へ視線を巡らせている。
「カイル」
声をかけると、彼は振り返った。
「おう」
「今日は護衛ですの?」
「一応な。殿下の使いで来たついでに、周辺確認」
「ついでが多いですわね」
「便利に使われてんだよ」
カイルは肩をすくめる。その顔に不満はない。慣れているのだろう。
ミトは少し迷ってから、庭の道を歩き出した。カイルは自然に少し後ろにつく。近すぎず、遠すぎず。相変わらず、呼吸しやすい距離だった。
「交流会、カイルも参加なさるのですよね」
「ああ。護衛兼、騎士科の顔合わせ」
「緊張します?」
「多少は」
「カイルでも?」
「するだろ、普通」
意外だった。
カイルはいつも平然としているように見える。呆れたり、短く返したり、雑に背中を押したりする。だから緊張とは無縁に見えていた。
「カイルも緊張するんですのね」
「何だと思ってんだよ」
「木の上の令嬢を助ける冷静な護衛ですわ」
「それ、いつまで言うんだ」
「たぶん一生」
「やめろ」
ミトは少し笑った。
笑ってから、少しだけ声を落とす。
「私も、緊張しています」
「だろうな」
「やっぱり分かります?」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「かなり」
ミトは両手で頬を押さえた。
「令嬢として失格ですわ」
「隠す必要あんのか」
「あります。交流会でずっと怖がっていたら、リリア様にも失礼ですもの」
「なら、怖くても普通にしてればいいだろ」
「それが難しいのです」
「だろうな」
カイルは簡単に言う。
簡単に言うけれど、馬鹿にしてはいない。
ミトは歩きながら、足元の小石を避けた。
「リリア様に会ったら、どうすればいいと思います?」
「普通に挨拶すればいいんじゃねぇの」
「普通が難しいのです」
「じゃあ、変に気合い入れんな」
「それも難しいです」
「難しいこと多いな」
「乙女ゲームの世界は難しいのですわ」
「また出たな、それ」
カイルは呆れたように息を吐く。
ミトは少しだけ迷ってから言った。
「カイルは、リリア様に会うのが楽しみですか?」
「何で俺が?」
「特待生代表ですし、光属性の適性があるそうですし、きっと可愛らしくて、努力家で、守りたくなる方なのではないかと」
「会ってもねぇのに分かんねぇだろ」
それはそうだ。
正しすぎて、ミトは黙った。
「でも、名簿には」
「名簿は人間じゃねぇよ」
カイルは淡々と言った。
「名前と肩書き見ただけで、その相手の全部が分かるわけねぇだろ」
ミトは足を止めた。
名簿は人間ではない。
それは、とても単純な言葉だった。
けれど、ミトの胸にまっすぐ刺さった。
ゲームの中のリリア。名簿の中のリリア。特待生代表としてのリリア。光属性のリリア。男爵家養女のリリア。
そのどれも、まだ現実のリリア本人ではない。
「……そう、ですわね」
「怖いのは分かるけどな」
カイルは少しだけ声を落とした。
「でも、お前が勝手に相手を決めつけたら、お前が一番嫌がってる“物語通り”に近づくんじゃねぇの」
ミトは息を呑んだ。
その通りだった。
自分がリリアを“ヒロイン”としてしか見なければ、彼女はミトの中でずっとヒロインのままだ。現実の彼女を見ないまま、ゲームの役割に押し込めてしまう。それは、自分が悪役令嬢の役割に怯えているのと同じことではないか。
「カイルは、時々とても痛いところを突きますわ」
「悪かったな」
「悪くはありません。少し痛いだけです」
「なら我慢しろ」
「慰めが雑ですわ」
「俺に繊細さを求めるな」
言い方は雑なのに、内容はずっと優しくなかった。
いや、優しくないからこそ、助かるのかもしれない。
ミトは小さく息を吐いた。
「リリア様に会ったら、ちゃんと見ます」
「おう」
「名簿ではなく、人として」
「そうしとけ」
「怖くても?」
「怖くても」
「逃げたくなっても?」
「木には登るな」
「そこですの?」
「そこだろ」
ミトは思わず笑った。
怖さは消えていない。
でも、笑えた。
それだけで、少し大丈夫な気がした。
◇
交流会当日まで、あと五日。
ミトは自室へ戻ると、リストに十番目を書き加えた。
十、名簿は人間ではない。ちゃんと本人を見る。
カイルの言葉そのままだ。
少し雑で、けれど必要な項目だった。
リリア・フェルナ。
ゲームのヒロイン。
特待生代表。
光属性の少女。
男爵家の養女。
それらは情報だ。
けれど、彼女自身ではない。
ミトはペンを置き、窓の外を見た。夕暮れの庭が淡く沈んでいく。薔薇の影が長く伸び、風が枝を揺らしている。
物語は近づいている。
でも、その中にいるのは、役割だけではない。
人だ。
リリアも。
レオンハルトも。
エヴァルドも。
カイルも。
そして、ミト自身も。
「私は、悪役令嬢ではありません」
小さく呟く。
まだ完全には信じられない。
それでも、言葉にしてみる。
「少なくとも、まだ」
少し弱気な付け足しが出た。
ミトは自分で苦笑する。
完璧ではない。
でも、今はそれでいい。
悪役令嬢にならないためではなく。
誰かを決めつけないために。
自分で選ぶために。
ミトはリストを折りたたみ、小箱の中へ入れた。
包み紙、リボン、下書き、リスト。
小箱の中は、少しずつ埋まっていく。
それは逃げ道ではない。
これから向き合うための、小さな準備だった。




