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第16話 交流会は、待ってくれない

 入学前交流会は、来週。


 その事実は、想像していた以上にミトの日常へ入り込んできた。


 朝起きれば、交流会用のドレス候補が並んでいる。朝食を終えれば、当日の挨拶順の確認がある。昼には、学園の簡易地図と参加者名簿を見比べる時間が用意され、夕方にはエヴァルドが穏やかな顔で「疲れていない?」と聞いてくる。


 疲れていない、と言えば嘘になる。


 けれど、逃げ出すほどではない。


 それが、今のミトにとっては少しだけ不思議だった。


 十歳の頃なら、きっと薔薇園へ逃げていた。十二歳の頃なら、温室の奥で息を潜めていたかもしれない。もう少し追い詰められれば、木の上に登るという大変よろしくない選択肢も、頭をよぎっただろう。


 けれど、十六歳のミトは机に向かい、名簿を開いている。


 逃げたい。


 でも、逃げる前に知りたい。


 その気持ちが、今はわずかに勝っていた。


「リリア・フェルナ……フェルナ男爵家養女……」


 名簿の文字を、声に出さない程度に唇だけでなぞる。


 フェルナ男爵家。


 ゲームの中では、リリアは平民出身の特待生として登場した。けれど、この世界では少し違う。名簿には、男爵家養女とある。つまり、学園に入る時点で、彼女は完全な平民ではない。


 その差が、妙に気にかかった。


(ゲームと違いますわ)


 ミトはペンを取り、手元の紙に小さく書き込む。


 リリア・フェルナ

 フェルナ男爵家養女

 特待生代表

 光属性補助魔法・治癒適性


 そこまで書いて、ペンが止まる。


 ゲームと違う点。


 一、男爵家養女になっている。


 二、特待生代表として交流会に参加。


 三、入学前から高位貴族と接触する可能性がある。


 文字にすると、ただの情報になる。


 怖さが消えるわけではない。けれど、正体の分からない影を見ているよりは、ずっとましだった。


 知らないから怖い。


 なら、知る。


 レオンハルトの言葉は、やはり腹立たしいほど正しい。


(影響されすぎではありません?)


 また同じことを思って、ミトは眉を寄せた。


 距離を取りたい相手の言葉を、こう何度も頼りにしていていいのだろうか。しかもレオンハルトは、こちらの不安を見透かすように核心を突いてくる。逃げても見つける。誤魔化しても問い返す。甘い言葉のつもりがないまま、心臓に悪い言葉を置いていく。


 非常に、よろしくない。


 よろしくないのに。


 ミトは机の端に置いた紺地のリボンへ視線を向けた。


 大事にすればいい。


 思い出しただけで、頬が熱くなる。


「……本当に、よろしくありませんわ」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 すると、後ろで控えていた侍女が小さく首を傾げた。


「お嬢様?」


「何でもありません」


「お顔が赤いようですが」


「気のせいですわ」


「お部屋が暖かすぎましたでしょうか」


「気のせいですわ」


 強めに言うと、侍女はそれ以上追及しなかった。良い侍女である。


 ミトは咳払いを一つして、名簿へ視線を戻した。


 今はレオンハルトのことを考えている場合ではない。いや、そもそも攻略対象の一人なので考えなければならないのだが、そういう方向で考えるのは危険だ。


 今見るべきは、リリア。


 本物のヒロイン。


 まだ会っていない少女。


 そして、もしかしたら自分と同じように、ゲームとは違う道を歩き始めているかもしれない存在。


「最初から敵だと思わない」


 ミトは昨夜書いたリストの五番目を見つめた。


 難しい。


 とても難しい。


 けれど、それを決めたのは自分だ。



 交流会の準備は、昼過ぎから本格的に始まった。


 とはいえ、ミトが最初にしたことはドレス選びではない。参加者名簿に印をつけることだった。


 第一王子レオンハルト・ヴァルディス。


 これは当然いる。むしろいない方が不自然だ。


 ローゼンクランツ公爵家、ミト・ローゼンクランツ。


 自分の名前。見慣れているはずなのに、学園の名簿に載っていると少しだけ緊張する。


 カイル・グレン。


 騎士科交流枠。護衛任務兼任。


(カイルも来ますのね)


 少しだけ肩の力が抜けた。


 カイルがいれば、呼吸できる隙間ができる気がする。もちろん、それに頼りすぎるのはよくない。けれど、いると分かるだけで安心するのは事実だった。


 ルシアン・クロフォード。


 魔術科推薦枠。


 ゲームでは、知的で謎めいた魔術師枠だった。いつも穏やかに笑いながら、相手の思考を先に読んでいるような人物。ミトはまだ深く関わっていない。けれど、交流会に参加するなら、いずれ対面することになるだろう。


 セシル・アトウェル。


 社交科推薦枠。


 軽やかで、人懐こく、けれど本心が読めない攻略対象。ゲームでは、明るく見えて一番危険なタイプだった。あの笑顔で距離を詰められたら、ミトはきっと数歩下がる。いや、下がれるかどうかも怪しい。


 そして。


 リリア・フェルナ。


 特待生代表。


 ミトはその名前に、二重線ではなく、小さな丸をつけた。


 警戒の印ではない。


 確認するための印。


 敵ではなく、まず知る相手として。


 ペン先が少し震えたが、線は乱れなかった。


「ミト」


 扉の外から声がした。


「はい」


「入ってもいい?」


「どうぞ」


 入ってきたのはエヴァルドだった。手には薄い封筒と、小さな箱を持っている。


「準備中?」


「はい。参加者名簿を確認しておりました」


「えらいね」


「子ども扱いですわ」


「十六歳でも、妹は妹だから」


 いつものやり取りに、ミトは少しだけ息を吐く。


 エヴァルドは机の上の名簿を見て、リリアの名前についた丸に気づいたようだった。けれど、すぐには何も言わない。その代わり、小さな箱を机に置いた。


「仕立て師から、リボンの生地見本が届いたよ」


「もうですか?」


「早い方がいいと思って」


 用意が早い。


 非常に早い。


 だが、今回は嫌ではなかった。ミトが自分で伝えると言った件について、エヴァルドは勝手に決めず、見本だけを届けてくれたのだ。


 箱を開けると、紺地に金糸の入った生地がいくつか並んでいた。薔薇の刺繍の大きさ、金糸の濃さ、布の厚み。少しずつ違う。


「私が選んでも?」


「もちろん」


 エヴァルドは穏やかに言う。


「君のリボンだからね」


 その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。


 ミトはひとつひとつ見比べる。昨日の仮リボンに近いもの。少し華やかなもの。落ち着きすぎているもの。学園の制服に合わせるなら、派手すぎるのは避けたい。けれど、地味にしすぎて自分が選んだ意味を消すのも違う。


「これにします」


 ミトは中ほどにあった生地を選んだ。紺は深すぎず、金糸は控えめで、薔薇の刺繍は近づいて見れば分かる程度。


 エヴァルドはそれを見て、微笑んだ。


「いいと思う」


「本当ですか?」


「うん。ミトらしい」


 ミトらしい。


 その言葉に、少し照れる。


「では、これを仕立て師に伝えます」


「一緒に行こうか?」


 ミトは少し考えた。


 自分で伝えると言った。けれど、エヴァルドにそばにいてほしいとも言った。


 どちらも本心だ。


「……一緒に来てください。でも、伝えるのは私です」


「うん。分かってる」


 エヴァルドは嬉しそうに笑った。


 それが本当に嬉しそうだったので、ミトは胸の奥が少しだけくすぐったくなった。



 仕立て師への伝達は、思っていたより緊張した。


 相手は長年ローゼンクランツ家に出入りしている職人で、ミトの好みもよく知っている。だから本来なら、何も怖いことはない。けれど「自分で選びました」と言葉にするのは、少し勇気がいった。


「こちらの生地で、制服用のリボンをお願いしたいのです」


 ミトが言うと、仕立て師は丁寧に生地を受け取った。


「かしこまりました。金糸は控えめに、薔薇の刺繍は細かく入れる形でよろしいでしょうか」


「はい。近くで見たときに分かるくらいがいいです」


「とても上品な仕上がりになるかと存じます」


 そこで、ミトは少しだけ迷った。


 言うべきか。


 言わなくても、仕立て師は綺麗に仕上げてくれる。きっとミトに似合うように整えてくれる。だが、それではまた“任せる”だけになる気がした。


 ミトは小さく息を吸う。


「それから、少しだけ動きやすい形にしてください」


 仕立て師が目を上げた。


「動きやすい、でございますか?」


「はい。学園では、剣術訓練も受けるかもしれませんので。胸元で邪魔にならず、それでもきちんと見える形がいいです」


 言ってから、ミトは自分で少し驚いた。


 剣術訓練を受けるかもしれない。


 候補に入れただけだったはずなのに、口にしたら少し現実になった気がした。


 仕立て師は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに職人の顔になった。


「承知いたしました。では結び目は小さく、垂れる部分をやや短くいたしましょう。動いた際に乱れにくい形に調整いたします」


「お願いします」


 言えた。


 自分で。


 ミトはほっと息を吐く。


 隣にいたエヴァルドが、何も言わずに見守っていた。口を出さない。代わりに決めない。ただ、そこにいる。


 それが少し、嬉しかった。


 部屋を出たあと、エヴァルドが静かに言った。


「ちゃんと伝えられたね」


「はい」


「剣術訓練のことも」


「……口が滑りました」


「でも、本心でもある」


 ミトは視線を逸らした。


「たぶん、少し」


「それでいいと思うよ」


「お兄様は、私に剣術訓練を受けさせたいのですか?」


「受けてほしい気持ちはあるよ。君が自分を守れることは大事だから」


「守られてばかりではなく?」


「うん」


 エヴァルドは優しく笑った。


「守る側の気持ちとしては、ずっと守らせてほしい。でも兄としては、君が自分で立てる方が嬉しい」


「難しいですわね」


「難しいね」


 完璧な兄が、難しいと言う。


 それだけで、少しだけ安心した。



 交流会用のドレス選びは、さらに難航した。


 リボンの比ではなかった。


 応接室には淡い色のドレスが何着も並べられていた。春らしい薄紅、落ち着いた淡青、上品な白、柔らかな菫色。どれも美しく、どれもミトに似合うように仕立てられている。


 つまり、どれを選んでも正解に見える。


 それが一番困る。


「こちらの薄紅は、ミト様の髪色とよく合いますわ」


 侍女が一着を示す。


「こちらの淡青は、清楚で知的な印象になります」


 別の侍女がもう一着を示す。


「白は?」


 エヴァルドが軽く言う。


「駄目です」


 ミトは即答した。


「なぜ?」


「ヒロイン色が強すぎますわ」


「ヒロイン色」


「白は危険です。光属性の方と並んだとき、ややこしくなります」


「なるほど?」


 エヴァルドは分かったような、分からないような顔で頷いた。


 ミトは真剣だった。


 交流会にはリリアが来る。彼女は光属性と治癒適性を持つ特待生。おそらく清楚で明るい印象の装いをしてくる可能性が高い。ならば、ミトが白で正面から被るのは避けた方がいい。ヒロイン枠争奪戦のように見えたら困る。


 もちろん、争うつもりはない。


 ないからこそ、被りたくない。


(目立ち方を選ぶのです)


 ミトはドレスを見比べる。


 薄紅は髪に合いすぎる。少し甘い。淡青は落ち着くが、少し距離がある。菫色は大人っぽい。紺は制服のリボンと近いが、交流会にはやや重い。


 ミトの視線が、淡い桜色と菫色の中間のような一着で止まった。


 柔らかいローズラベンダー。明るすぎず、沈みすぎない。胸元には控えめな薔薇の刺繍。袖は軽く、動きやすそうだ。


「これにします」


 ミトが指差すと、侍女たちが一瞬だけ嬉しそうに目を輝かせた。


「とてもお似合いになると思います」


「交流会にも上品でございますね」


「髪飾りはどうなさいますか?」


 来た。


 次の選択である。


 ミトは内心で少しだけ遠い目をした。


 選ぶというのは、終わりがない。


 だが、逃げない。


「髪飾りは、小さめの薔薇細工にします。色は……金ではなく、薄い銀で」


 言ってから、少しだけ考える。


 銀。


 レオンハルトの髪を連想してしまう。


 いや、違う。単にドレスとの相性である。金では少し華やかすぎる。薄い銀の方が落ち着く。それだけだ。


 たぶん。


 エヴァルドが横で何か言いたそうにしている。


「お兄様」


「うん?」


「何か?」


「何も」


「本当に?」


「うん。薄い銀、いいと思うよ」


 微笑みが少しだけ意味ありげだった。


 ミトは見なかったことにした。



 準備が進むほど、交流会は現実味を増していった。


 ドレス。髪飾り。リボン。名簿。挨拶の順序。会場の場所。誰と最初に話すか。誰に礼をするか。どこまで話して、どこから距離を取るか。


 ひとつ決めるたびに、逃げ道は減る。


 けれど不思議なことに、何も決めずに怯えているよりは楽だった。


 怖いものの輪郭が少しずつ見えてくる。


 それだけで、呼吸がしやすくなる。


 夕方、ミトは自室に戻り、机の上のリストへ新しい項目を加えた。


 六、交流会では、リリア様の話し方を見る。


 七、最初から避けない。ただし近づきすぎない。


 八、困ったら一度深呼吸する。


 九、カイルがいたら、木には登らない。


 九番目を書いて、ミトは少しだけ笑った。


 これは本当に必要な項目だろうか。


 必要かもしれない。


 念のためである。


 そのとき、窓の外から風が入ってきた。机の上の紙がふわりと揺れる。ミトは慌てて押さえた。


 リストの上で、リリアの名前が揺れる。


 来週。


 会う。


 その事実に、まだ胸はざわつく。


 けれど、昨日ほどではない。


 準備をしているからだ。


 逃げるためではなく、向き合うための準備を。


「……大丈夫」


 声に出してみる。


 少し頼りない声だった。


 それでも、言わないよりはましだった。


「大丈夫ですわ。たぶん」


 たぶん、を付けてしまうあたりが、今のミトらしい。


 完璧ではない。


 強くもない。


 でも、逃げるだけではない。


 ミトはリストを丁寧に折りたたみ、小さな箱の中へ入れた。包み紙とリボンの隣。そこに、交流会へ向かうための準備も加わる。


 小箱の中の余白は、また少しだけ埋まった。



 交流会当日まで、あと六日。


 物語の扉は、少しずつ近づいている。


 ミトはまだ怖い。


 リリアの名前を見るだけで胸がざわつくし、レオンハルトの視線を思い出すだけで落ち着かなくなる。エヴァルドの優しさに甘えそうになるし、カイルの雑な言葉が妙に恋しくなるときもある。


 それでも、ミトはもう、ただ逃げるだけではなかった。


 自分で選んだリボンがある。


 自分で書いたリストがある。


 自分で決めた保留がある。


 そして、会うと決めた。


 まだ知らない本物のヒロインに。


 画面の向こうではなく、この世界に生きているリリア・フェルナに。


 ミトは窓を閉め、灯りを見上げた。


 交流会は、待ってくれない。


 ならばこちらも、立ち止まっているだけではいられない。


 怖くても。


 迷っても。


 選ぶために、準備をする。


 それが、今のミトにできる精一杯だった。

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