第15話 選ぶための準備
その夜、ミトは自室の机に向かっていた。
窓の外はすっかり暗く、庭の薔薇も、昼間の鮮やかさを失って静かな影になっている。室内には小さな灯りがともり、机の上には王立アルディシア学園から届いた書類が広げられていた。入学式の案内、履修科目の一覧、制服装飾の申請書、寮希望の用紙、そして特待生制度について記された紙。昼間に何度も見たはずなのに、夜に見るとまた違って見える。昼間は“未来”だったものが、夜には“現実”として迫ってくるようだった。
ミトは胸元から外した仮のリボンを、机の端にそっと置いた。紺地に金糸。小さな薔薇の刺繍。正式な制服の一部ではない。ただの仮合わせ用のリボンだ。それでも今のミトにとっては、ただの飾りではなかった。
「私が選んだもの、ですものね」
声に出すと、少し照れくさかった。木苺のタルト。小さな思い出の包み紙。紺地のリボン。履修科目の候補。寮か通学かという保留。ひとつひとつは小さい。けれど、それらは確かにミト自身が手を伸ばしたものだった。
前世の記憶を取り戻してから、ミトはずっと“避けること”ばかり考えていた。レオンハルトと距離を取る。攻略対象たちと関わりすぎない。ヒロインの邪魔をしない。断罪に繋がる道を踏まない。何かを得るより、何かを失わないために動いていた。
けれど、学園はもうすぐそこまで来ている。
逃げるだけでは、たぶん足りない。
ミトは履修科目の一覧を手に取った。必須科目の横に、選択科目が並んでいる。魔術応用、剣術訓練、薬草学、古典文学、美術、音楽、社交実習補講、治癒魔法基礎。どれも学園での立ち位置に関わるものばかりだ。
魔術応用は必要だ。ローゼンクランツ家の娘として、火と氷の二属性を扱えることを完全に隠すのは難しい。けれど目立ちすぎれば、リリアの光属性と比べられる可能性がある。剣術訓練も同じだ。家の技を鈍らせるわけにはいかないが、剣を扱う公爵令嬢はどうしても目を引く。
(目立たない選択肢が、ほとんどありませんわ)
そもそも、第一王子の婚約者という時点で目立たないのは無理だった。
ミトは静かに項目へ目を走らせる。逃げたい気持ちはある。けれど、逃げるために何も学ばないというのは違う気がした。力を隠して何もできなくなるより、力を持った上で使い方を選べる方がいい。
昼間、レオンハルトは言った。目立つことが避けられないなら、どう目立つかを選べばいい、と。
悔しいけれど、正しい。
ミトは小さく息を吐き、魔術応用と剣術訓練の横に小さな印をつけた。
「……逃げ道ではなく、備えですわ」
言い訳のように呟く。でも、言い訳でもよかった。今のミトには、前へ進むための理由が必要だった。
◇
次に目を向けたのは、寮希望の用紙だった。
通学か、寮か。
これは簡単には決められない。
通学なら、屋敷に戻れる。エヴァルドの目が届く。使用人たちもいる。安全で、整っていて、何もかもが守られている。その代わり、学園で起きる細かな変化には気づきにくくなるかもしれない。
寮なら、学園の中にいられる。情報も得やすい。リリアや攻略対象たちの動きも見える。けれど同時に、イベントに巻き込まれる可能性も高くなる。レオンハルトとの距離も、他の生徒たちから見られる形になる。
どちらも安全ではない。どちらも危険だ。
「……いっそ森」
言いかけて、ミトは自分で口をつぐんだ。
昼間、エヴァルドに即答で却下されたばかりだ。山奥の修道院も、離島も、修行の旅も駄目。逃げ道候補が片っ端から消えている。
ミトはペンを持ち、寮希望の欄をじっと見つめた。すぐには書けない。書けば、道が一つ決まってしまう気がする。けれど、空白のままにしておくのも違う。
ミトは用紙の端に、小さく「保留」と書いた。
エヴァルドが言ってくれた言葉を思い出す。
保留も選択の一つ。
なら、今はこれでいい。
決めるために、もう少し情報を集める。学園の寮がどんな場所なのか。通学の場合の行動範囲はどうなるのか。リリアが寮に入るのか。レオンハルトはどの形を取るのか。知らないまま怖がるのではなく、知ってから判断する。
レオンハルトなら、そう言うだろう。
(……影響されすぎではありません?)
自分で自分に問いかける。レオンハルトの言葉を思い出して安心するのは、少し危険な気がした。距離を取りたい相手なのに、その言葉に支えられてどうするのか。
けれど、支えられたものは仕方がない。
ミトは机の上のリボンに目をやった。
似合っている。大事にすればいい。
昼間のレオンハルトの声が蘇り、ミトは無意識に頬を押さえた。
「……本当に、良くありませんわ」
あの人は、ずるい。甘い言葉を言うつもりなどない顔で、甘いよりも重い言葉を置いていく。心臓に悪い。非常に悪い。
それでも、リボンを仕舞う手は優しかった。
◇
小さな箱は、夕方のうちにエヴァルドが用意してくれていた。
ただし、選んだのはミトだ。
侍女がいくつか持ってきた中から、白木に薔薇の細工が入った小箱を選んだ。金や宝石で飾られた豪華なものもあったけれど、今日の思い出には少し華やかすぎる気がした。木苺のタルトの包み紙には、もっと素朴なものが合う。
ミトは小箱の蓋を開け、畳んだ包み紙を入れた。それから、迷った末に、紺地の仮リボンもそっと並べる。
同じ日に選んだもの。同じ日に、少しだけ前へ進めた証。
そう思うと、別々にするのが惜しくなった。
小箱の中には、まだ余白がある。これから学園へ行けば、何かが増えていくのだろうか。自分で選んだもの。怖かったけれど受け取ったもの。誰かと交わした言葉。逃げずに立った記憶。そんなものを、少しずつここへ入れていけるだろうか。
その未来は、少し怖くて、少しだけ楽しみだった。
「お嬢様」
控えめな声がして、侍女が扉の前で一礼した。
「エヴァルド様が、お休み前に少しだけお話をと」
「お兄様が?」
「はい」
こんな時間に珍しい。
ミトは書類を軽く整え、小箱の蓋を閉じた。
「お通しして」
少しして、エヴァルドが部屋へ入ってきた。夜の装いに近い軽い上着姿で、昼間よりも少し柔らかい雰囲気をまとっている。手には温かい飲み物の乗った小さな盆があった。
「眠る前に、少しだけ」
「お兄様が運んでくださったのですか?」
「うん。たまにはね」
「侍女のお仕事を取ってしまいますわ」
「今日は兄の仕事をしたい気分だったんだ」
そう言って笑う。
ミトは少しだけ首を傾げた。エヴァルドはいつも優しい。けれど、今夜の優しさはどこか慎重だった。
彼は机の上の書類を見て、わずかに目を細める。
「考えていたんだね」
「はい。少しだけ」
「決まった?」
「魔術応用と剣術訓練は、候補に入れます」
「うん」
「寮か通学かは、保留にしました」
「それもいいと思う」
エヴァルドはミトの向かいに座った。飲み物のカップを差し出す。甘い香りがする。蜂蜜入りの温かなミルクだった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ミトはカップを両手で包む。温かさが指先から伝わってくる。
少し沈黙が落ちた。
エヴァルドは穏やかに口を開いた。
「昼間、君が“自分で伝える”と言ったこと」
「制服のリボンのことですか?」
「うん。嬉しかったよ」
ミトは少し驚いた。
「嬉しかった、ですの?」
「もちろん。君が自分で選んだものを、大事にしようとしているのが分かったから」
「でも……少し寂しそうでした」
言ってから、踏み込みすぎただろうかと思った。けれどエヴァルドは怒らなかった。困ったように、けれど誤魔化さずに笑う。
「そう見えた?」
「はい」
「うん。少し寂しかった」
正直な返事だった。
ミトはカップを持つ手に力を込める。
「私が、自分で選ぶからですか?」
「それもあるけど、違うかな。君が少しずつ、僕の知らない場所へ進んでいくんだと思ったから」
胸の奥がきゅっとした。
エヴァルドはミトを閉じ込めたいわけではない。けれど、遠ざかるのは寂しい。守りたい。けれど選ばせたい。その間で、彼も迷っているのだ。
完璧に見える兄も、迷う。
そのことが、少し意外で、少し嬉しかった。
「私は、お兄様から離れたいわけではありません」
「うん」
「でも、全部を決めてもらうのは……少し違う気がして」
「分かってる」
「本当に?」
「分かりたいと思ってる」
昼間と同じ言葉。けれど夜の静けさの中で聞くと、もっと深く届いた。
ミトはカップの中の白い表面を見つめる。
「私は、学園が怖いです」
「うん」
「リリア様のことも、怖いです。まだ会ってもいないのに、こんなふうに思うのは失礼だと分かっています。でも、怖いのです」
「うん」
「もし、その人が本当に物語の中心に立つ方なら、私はどうすればいいのでしょう。離れるべきなのか、近づいて知るべきなのか。何もしない方がいいのか、何かした方がいいのか」
言葉にしても、答えは出ない。けれど、口にするだけで、胸の中の曖昧な不安が少し形を持つ。
エヴァルドは静かに聞いていた。
「ミトは、その子を傷つけたい?」
「いいえ」
「その子に奪われるのが怖い?」
ミトは答えに詰まった。
奪われる。
何を。
レオンハルトを。攻略対象たちを。物語の位置を。平穏を。自分が今、少しずつ築いてしまった関係を。
「……分かりません」
正直に言う。
「でも、私のものではないものを、失うのが怖いと思っているのかもしれません」
レオンハルトは第一王子で、ゲームでは攻略対象だ。リリアと結ばれる可能性がある人物。カイルも、他の攻略対象たちも同じ。彼らは本来、ヒロインと出会うためにそこにいるのかもしれない。
なら、ミトが怖がる資格はあるのだろうか。
自分のものではないのに。
けれど、十歳から積み重ねてきた時間は確かにある。逃げて、見つけられて、助けられて、話して、少しずつ変わってきた。何もなかったことにはできない。
エヴァルドはゆっくりと言った。
「ミト」
「はい」
「人は、物じゃないよ」
ミトは顔を上げた。
「誰かのものとして、最初から決まっているわけじゃない。君も、殿下も、カイルも、そのリリアという子も」
「……はい」
「だから、誰かが誰かに奪われるというより、それぞれが何を選ぶかなんだと思う」
選ぶ。
また、その言葉に戻ってくる。
「でも、選ばれなかったら?」
「悲しいね」
「お兄様」
「悲しいよ。でも、悲しいから選ばない、というわけにもいかない」
エヴァルドの声は優しかった。けれど、甘やかすだけではなかった。
「僕は、君に傷ついてほしくない。でも、君が何も選ばずにずっと怖がっている方が、きっともっとつらい」
ミトは何も言えなくなった。
兄は守ろうとしてくれている。けれど、閉じ込めるだけではない。少なくとも、今は。
「お兄様は、私が何を選んでも、味方でいてくれますか?」
少し震えた声で聞く。
エヴァルドは微笑んだ。
「それは違うよ」
ミトの胸が冷える。
「違う、のですか?」
「僕は、君が間違えそうなら止める。危ない道へ行きそうなら手を引く。君が誰かを傷つけようとするなら叱る」
エヴァルドはそこで少しだけ目を細めた。
「でも、それでも最後には、君の味方でいる」
ミトは唇を引き結んだ。
泣くような場面ではない。
なのに、胸の奥が熱くなる。
「……ずるいですわ」
「そうかな」
「そんな言い方をされたら、安心してしまいます」
「安心していいんだよ」
「でも、甘えすぎます」
「少しは甘えてくれた方が、兄としては嬉しいかな」
穏やかに言われ、ミトは困ってしまう。甘えたい。でも、甘えすぎたくない。守られたい。でも、自分で選びたい。その矛盾が、今のミトなのだろう。
◇
エヴァルドが部屋を出たあと、ミトはしばらく灯りを見つめていた。
学園は怖い。
リリアも怖い。
未来も怖い。
けれど、少しだけ分かったことがある。怖いからといって、全部を遠ざける必要はない。知って、考えて、選ぶ。間違えそうなら止めてもらう。怖いなら怖いと言ってもいい。全部を一人で抱え込まなくてもいい。
それは、前世を思い出した十歳のミトにはできなかったことだ。
あの頃は、ただ逃げるしかなかった。薔薇園へ。温室へ。木の上へ。そして、必ず誰かに見つかった。
今は違うのだろうか。
完全には違わない。今でも逃げたい。隠れたい。リリアの名前を見ないふりをしたい。学園の封筒を閉じて、しばらく開けたくない。
それでも、今日のミトは封筒を開けた。書類に印をつけた。保留と書いた。リボンを選んだ。兄に話した。
それだけでも、少しは変わっている。
ミトは机に向かい、白い紙を一枚取り出した。
そこに、ゆっくりと書き始める。
学園で確認すること。
一、特待生制度について調べる。
二、正式名簿が届いたら確認する。
三、履修科目は自分で決める。
四、寮か通学かは情報を集めてから決める。
五、リリア様に会っても、最初から決めつけない。
五番目を書いたところで、ペンが止まった。
最初から決めつけない。
それは難しい。
ミトはリリアを知っている。正確には、ゲームの中のリリアを知っている。けれど、現実のリリアはまだ知らない。
もしかしたら、同じではないかもしれない。
ミト自身がゲーム通りではないように。レオンハルトがゲームの印象とは違うように。カイルがただの攻略対象ではなく、木から降ろしてくれた少年であるように。
リリアもまた、画面の向こうのヒロインとは違うのかもしれない。
「……怖いですけれど」
ミトは小さく呟き、五番目の文字を指先でなぞった。
最初から敵だと思わない。
それができるかは分からない。けれど、書いておく。今はまだ、それでいい。
◇
翌朝、ローゼンクランツ家の食卓はいつも通り穏やかだった。焼きたてのパン、季節の果物、香りのいい紅茶。完璧な温度で出されたスープ。窓の外には朝の光が差し込み、庭師たちが薔薇の手入れを始めている。
いつもと同じ朝。けれど、ミトの前には一枚の紙があった。昨夜書いた、学園で確認することの一覧だ。
「リストを作ったんだね」
「はい」
「見ても?」
「……はい」
ミトは少し緊張しながら紙を渡した。エヴァルドは丁寧に目を通す。途中で口を挟まず、最後まで読む。
「いいと思う」
「本当ですか?」
「うん。特に五番目」
ミトは少しだけ目を伏せた。
「難しいです」
「うん。難しいと思う」
「でも、書いておかないと、怖さに負けそうで」
「なら、書いて正解だね」
エヴァルドは紙を返す。
「これ、持っていく?」
「学園に?」
「うん。お守り代わりに」
お守り。その言葉に、ミトは少し考える。リボン。包み紙。小さな箱。学園で確認することの紙。お守りばかり増えていく気がする。けれど、悪くない。
「持っていきます」
「うん」
「でも、誰にも見られないようにします」
「特に殿下に?」
「特に殿下に」
即答したあと、ミトは少しだけ顔を赤くした。エヴァルドが楽しそうに笑う。
「殿下なら、見ても怒らないと思うけど」
「怒らないから困るのです。分析されます」
「確かに」
「お兄様、そこで納得しないでください」
「ごめんね」
穏やかな朝の中で、少しだけ笑いが生まれる。ミトは紅茶を一口飲んだ。昨日までと同じ屋敷。同じ食卓。同じ兄。けれど、ほんの少しだけ違って感じる。自分で書いた紙がある。自分で決めた保留がある。自分で選んだリボンがある。それだけで、整えられた世界の中にも、小さな自分の場所ができたような気がした。
◇
食後、侍女が一通の封書を持ってきた。
「学園より、追加の書類が届いております」
ミトの手が止まる。エヴァルドも視線を上げた。
「追加?」
「はい。新入生の一部名簿と、入学前交流会についてのご案内でございます」
胸の奥が、どくりと鳴った。
新入生の一部名簿。
ミトはゆっくり封書を受け取った。昨日より軽いはずの封筒が、妙に重く感じる。封蝋を割る指先に、わずかに力が入った。中には、入学前交流会の案内と、参加予定者の一部名簿が入っている。王族、高位貴族、公爵家、侯爵家、そして特待生代表。
ミトの目は、自然とその欄へ吸い寄せられた。
リリア・フェルナ。
フェルナ男爵家養女。
特待生代表。
光属性補助魔法および治癒適性により選出。
文字は淡々としていた。ただの名前。ただの肩書き。ただの入学前交流会の参加者。けれどミトには、その一行が物語の扉のように見えた。
「……来た」
小さく声が漏れる。
「この子?」
エヴァルドが名簿を覗き込む。ミトは頷いた。
「はい」
喉が乾く。本物のヒロイン。ゲームの中心。まだ会っていない少女。けれど、ついに名前が現実の紙の上に現れた。逃げられない。もう、知らないふりはできない。
「交流会は、来週だね」
エヴァルドの声は静かだった。来週。思ったより近い。ミトの指先が震える。怖い。けれど、昨夜書いた五番目の言葉が頭に浮かぶ。
リリア様に会っても、最初から決めつけない。
ミトは深く息を吸った。
「お兄様」
「うん」
「交流会に、行きます」
言った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。けれど、逃げるとは言わなかった。
エヴァルドは少しだけ驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「うん。一緒に準備しよう」
「はい。でも」
「決めるのはミトだね」
先に言われて、ミトは少しだけ笑った。
「はい」
名簿の上で、リリア・フェルナの名前が静かに光っているように見えた。物語はもう、近づいているだけではない。扉の前まで来ている。けれどミトは、名簿から目を逸らさなかった。
怖いなら、知る。迷うなら、選ぶ。そして、会う前から敵だと決めつけない。
それが、今のミトにできる最初の準備だった。




