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第14話 本物のヒロインの名前

 特待生制度について記された紙は、何度読み返しても、そこに名前までは載っていなかった。


 身分を問わず、優秀な者に学びの門を開くための制度。王立アルディシア学園が建国当初から掲げている理念の一つであり、毎年数名だけ、平民や下級貴族から選ばれた生徒が入学を許される。魔術、学問、剣術、芸術、治癒の才。選ばれる理由はさまざまだが、学園における特待生は特別な存在だった。


 それは、ゲームでも同じだった。


 乙女ゲーム『偽りのヒロインと真実の恋』。通称『偽ヒロ』。その物語の中心にいる少女こそ、特待生として学園へ入学するリリア・フェルナである。


 淡い金の髪。澄んだ緑の瞳。光属性の補助魔法と治癒の才。控えめで努力家、けれど本当は誰よりも認められたいと願う少女。


 そして、攻略対象たちの心を少しずつ動かしていく、本物のヒロイン。


 ミトは紙面を見つめたまま、指先に力を込めた。まだ名前はない。正式な名簿も届いていない。けれど、来る。きっと来る。リリアは学園に現れる。そうなれば、物語は本格的に動き出す。


「ミト」


 レオンハルトの声で、ミトは我に返った。


「はい」


「顔色が悪い」


「……少し、考え事をしておりました」


「特待生についてか」


 鋭い。


 いつも通り、逃げ場のない問いだった。


 ミトは書類を閉じ、できるだけ落ち着いた声を作る。


「ええ。学園では、さまざまな身分の方と関わることになるのだと思いまして」


「特待生と関わる予定があるのか」


「予定というほどでは……」


「では、気にする理由は」


 やはり逃がしてくれない。


 ミトは膝の上で指を重ねた。リリアの名を知っているとは言えない。ゲームのヒロインだから警戒しています、などと言えるはずもない。しかもリリアは、現時点ではまだ何もしていない。警戒する方が失礼だ。


 けれど、警戒せずにはいられない。


「……私、少し怖いのです」


 結局、出てきたのはそんな言葉だった。


 レオンハルトの視線が静かに細くなる。エヴァルドも、黙ってミトを見た。


「何が怖い」


「学園です。今までは屋敷や限られた場所の中で、皆様と関わっていました。でも学園に入れば、もっとたくさんの人がいます。身分も、考え方も、目的も違う方々が。それに……」


 言葉が詰まる。


 リリアが来る。


 攻略対象たちが揃う。


 断罪イベントへ繋がるかもしれない。


 言いたいことは山ほどあるのに、言える形にならない。


 ミトは小さく息を吸った。


「私が知らないところで、何かが始まってしまう気がするのです」


 それは、嘘ではなかった。


 ゲームの知識がある。だからこそ、ミトは未来を知っているつもりだった。けれど現実はすでにずれている。レオンハルトは近すぎる。エヴァルドは深く関わりすぎている。カイルとも、本来より早く出会っている。


 知っている未来なのに、もう正確には読めない。


 それが怖い。


「知らないところで始まるのが怖いなら」


 レオンハルトが静かに言った。


「知ればいい」


 ミトは瞬きをした。


「知る、ですの?」


「ああ。特待生が気になるなら、制度を確認する。入学者が気になるなら、名簿が届いた時点で見る。相手を知らずに恐れるより、知って判断した方がいい」


 あまりにも正論だった。


 そして、とてもレオンハルトらしい。


「殿下は、怖くありませんの?」


「何が」


「知らない方と出会うことです」


「必要なことだ」


「必要なら、怖くないのですか?」


「怖いかどうかと、必要かどうかは別だ」


 ミトは少しだけ黙った。


 怖くても、必要なら進む。


 レオンハルトはきっと、ずっとそうしてきたのだろう。第一王子として。将来、国を背負う者として。ミトとは見ている世界の大きさが違う。


「私は、怖いと逃げたくなりますわ」


「知っている」


「そこは否定してくださいませ」


「事実だからな」


 淡々と返され、ミトは少しだけ頬を膨らませた。


 その様子を見て、エヴァルドが小さく笑う。


「でも、最近は逃げる前に考えるようになったね」


「お兄様まで」


「大事な変化だよ」


 エヴァルドは穏やかに言って、ミトの前に置かれた書類を整えた。


「怖いものを全部遠ざけることはできない。けれど、怖いものを知る準備はできる。ミトが自分で選びたいなら、まずは知るところから始めよう」


 整えられる。


 またそう感じた。


 けれど、今度は不思議と息苦しくなかった。


 エヴァルドは、ミトの選択を奪おうとしているのではない。選ぶために必要な材料を揃えようとしている。そこにはやはり兄らしい過保護があるけれど、少なくともミトの言葉を無視しているわけではなかった。


「では、特待生制度についても調べます」


 ミトは言った。


「名簿が届いたら、自分で確認します」


「うん」


「それから、履修科目も自分で決めます」


「うん」


「お兄様のおすすめ履修表は、参考にします」


「参考にしてくれるだけで十分だよ」


 本当に十分だと思っている顔ではなかった。


 ミトは少しだけ目を細める。


「お兄様」


「うん?」


「参考です」


「うん。参考」


「強制ではありません」


「もちろん」


 にこりと笑う兄を見て、ミトは判断した。


 これは絶対に、参考の皮をかぶった強い推奨である。


 油断してはいけない。



 レオンハルトが案内状を一枚手に取った。


「剣術訓練は入れる」


「まだ決めておりません」


「必要だ」


「殿下まで強い推奨をなさるのですね」


「推奨ではない」


「命令ですの?」


「判断だ」


「余計に逃げ道がありませんわ」


 ミトが小さく息を吐くと、レオンハルトは書類から視線を上げた。


「君は剣を扱える。魔術も扱える。ローゼンクランツ家の技もある。学園でそれを隠し続けるのは不自然だ」


「目立ちたくないのです」


「目立つ」


「努力でどうにかなりません?」


「ならない」


 きっぱり言われた。


 ミトはしばらくレオンハルトを見つめ、それから静かに視線を落とした。


「……では、目立ち方を選ぶべき、ということですのね」


 口にしてから、自分でも驚いた。


 逃げるか、目立たないか、隠すか。


 これまではそればかり考えていた。けれど今、自然と別の選択肢が浮かんだ。


 目立つことが避けられないなら、どう目立つかを選ぶ。


 それは、逃げるだけでは出てこなかった考えだった。


 レオンハルトの目がわずかに細くなる。


「そうだ」


 短い肯定。


 けれど、その一言だけで、胸の奥が少し熱くなった。


「悪役令嬢として目立つのは避けたいですわ」


「なら、別の形にすればいい」


「別の形……」


「優秀な公爵令嬢として目立てばいい」


「それはそれで、リリア様のヒロイン性を脅かしません?」


「なぜそこで特待生が出る」


 しまった。


 本日二度目である。


 ミトは口元を押さえた。


 レオンハルトの視線が鋭くなる。エヴァルドも、にこにこしたまま目だけが少し冷静になった。


「ミト」


 兄の声が柔らかい。


 柔らかいのに、逃げられない。


「そのリリア様という子について、もう少し聞いてもいいかな?」


「……夢に出てきました」


「さっきも似たようなことを言っていたね」


「印象的な夢でしたの」


「どんな夢?」


 ミトは沈黙した。


 ここでどこまで言うべきか。前世の記憶をすべて話すのは危険だ。信じてもらえないかもしれないし、信じられたとしても余計な混乱を招くかもしれない。


 だが、何も言わないままでは、また一人で抱え込むことになる。


 ミトは、指先に力を込めた。


「学園で、光のように見える女の子がいました」


 嘘ではない。


 ゲーム画面の中のリリアは、いつも光をまとっていた。明るく、清楚で、誰からも目を引く存在だった。


「その方が、たくさんの人に囲まれていました。皆様が、彼女を見るのです。優しく、心配そうに、時には苦しそうに」


 レオンハルトも。カイルも。ルシアンも。セシルも。


 そして場合によっては、エヴァルドも。


 その未来が実際に来るかは分からない。けれど、ミトの中には強く残っている。


「私は、その輪の外にいました。見ているだけでした。でも、なぜか最後には、私が責められているような気がしたのです」


 断罪。


 まだ確定していない未来。


 けれど、ミトがもっとも恐れているもの。


 部屋の空気が静かになった。


 エヴァルドは笑みを消してはいない。けれど、目の奥が少し深くなる。


「その夢が、怖いんだね」


「はい」


「それで、悪役令嬢になろうとした?」


「嫌われておけば、巻き込まれないと思いましたの」


「でも、うまくいっていない」


「……はい」


 とても不本意だが、成果はない。


 レオンハルトは静かに言った。


「君が嫌われようとしていることは知っている」


「はい」


「だが、それで君を嫌う理由にはならない」


 ミトは目を上げた。


 レオンハルトはいつも通りの顔でそこにいる。静かで、揺れない。けれど、その言葉はまっすぐだった。


「殿下は、私が変なことを言っても、嫌いになりませんの?」


「ああ」


「逃げても?」


「見つける」


「悪役令嬢になると言っても?」


「向いていない」


「……少しは揺らいでくださいませ」


「なぜ」


「私の努力が報われませんわ」


「報われる必要がない努力だ」


 きっぱり言われて、ミトは言葉を失った。


 エヴァルドが横で、少しだけ楽しそうに笑っている。


「殿下は、ミトの悪役令嬢計画に一番厳しいね」


「計画として成立していない」


「確かに」


「お兄様まで納得しないでくださいませ」


 思わず声を上げると、二人の視線がミトに向いた。


 そこで、はっとする。


 先ほどまで怖がっていたはずなのに。


 リリアの名前に怯え、学園に緊張し、未来を恐れていたはずなのに。


 今、少しだけ空気が軽い。


 レオンハルトの淡々とした否定。エヴァルドの穏やかな茶化し。自分の思わず出た反論。それらが、重くなりすぎた場を少しだけほどいている。


 ミトは胸に手を当てた。


(……怖いままでも、笑えるのですわね)


 それは、小さな発見だった。



 学園準備の話し合いは、午後いっぱい続いた。


 履修科目については、ひとまず保留になった。ミトが自分で考える時間を求めたからだ。ただし、剣術と魔術に関しては、レオンハルトとエヴァルドの意見が珍しく一致した。


「取るべきだね」


「取るべきだ」


「お二人とも、そこだけ息が合いすぎですわ」


 ミトは抗議したが、二人とも譲らない。


「君の身を守るために必要だよ」


「君の能力を隠しすぎるのは危険だ」


「理由がそれぞれ違うのに、結論が同じなのが一番困りますわ」


 しかも、どちらの理由も分からなくはない。


 結局、剣術訓練と魔術応用は候補に残すことになった。礼法と政治史は必須。薬草学は少し気になる。古典文学も悪くない。音楽は得意ではないが、逃げる理由にはならない。美術は好きだが、課題が多いと聞く。


 選ぶことは、思っていたより疲れる。


 けれど、悪くはなかった。


 ミトは自分で候補に印をつけていく。エヴァルドは助言をし、レオンハルトは時折必要な情報だけを補う。二人とも、完全に口を出さないわけではない。けれど、ミトの手から紙を取り上げることはなかった。


 それが少し嬉しい。


 そんな自分に、ミトは少し驚いた。


「寮については」


 エヴァルドが言う。


「もう少し考えてもいいね」


「はい」


「通学でも寮でも、どちらにも良い点と不安な点がある」


「私は……」


 ミトは言いかけて、止まった。


 どうしたいのだろう。


 通学なら安心。けれど屋敷の空気に戻る。寮なら自由。けれどイベントの中心に近づく。どちらを選んでも、逃げ道にも罠にもなる。


 レオンハルトが静かに見ている。


「急いで決める必要はない」


「殿下がそうおっしゃるのは意外ですわ」


「決めるには情報が足りない」


「情報が揃ったら?」


「決めればいい」


 それは、彼らしい答えだった。


 ミトは小さく頷く。


「では、保留にします」


「うん」


 エヴァルドが微笑む。


「保留も選択の一つだね」


 その言葉に、少しだけ救われた。


 選ぶとは、すぐに決めることだけではない。今は決めない、と決めることもある。


 ミトは書類の端に、小さく「保留」と書いた。


 自分の字で。


 それが、少しだけ誇らしかった。



 夕方になり、レオンハルトが帰る時間になった。


 玄関広間まで見送りに出ると、外は淡い橙色に染まっていた。馬車が用意され、護衛たちが静かに控えている。その中にカイルの姿もあった。


 目が合うと、カイルは軽く眉を上げた。


「決まったのか」


「いくつかは」


「へえ。逃げなかったんだな」


「逃げませんでした」


「珍しい」


「成長ですわ」


「自分で言うな」


 いつもの調子に、ミトは少しだけ笑う。


 レオンハルトが振り返った。


「ミト」


「はい」


「リボン」


 言われて、ミトは胸元を見る。仮合わせのためにつけていた紺地に金糸のリボン。外すのを忘れていた。


「あ……お返ししなければ」


「持っていていい」


「でも、まだ正式なものでは」


「君が選んだのだろう」


 その一言で、ミトは胸元のリボンにそっと触れた。


「……はい」


「なら、持っていればいい」


 レオンハルトは淡々と言う。


 まるで、それが当然であるかのように。


「学園で身につけるものは、これを基準にすればいい」


「殿下」


「何だ」


「そういう言い方は、少しずるいですわ」


「なぜ」


「大事にしたくなってしまいます」


 言った瞬間、ミトは自分で口を押さえた。


 何を言っているのか。


 レオンハルトは数秒だけ黙った。


 カイルが横でわずかに目を逸らす。エヴァルドは後ろでとても穏やかに微笑んでいるが、その笑みが少しだけ楽しそうである。


 レオンハルトは、いつも通り静かに言った。


「大事にすればいい」


 ミトの顔が熱くなる。


「……そういうところです」


「何がだ」


「何でもありません」


 この人は本当に分かっていないのか、それとも分かっていて言っているのか。


 どちらにしても心臓に悪い。


 ミトはリボンを握りしめたまま、視線を逸らした。


「では、殿下。お気をつけて」


「ああ」


 レオンハルトは馬車へ向かう。


 その直前、ふと足を止めた。


「ミト」


「はい」


「特待生の名簿が届いたら、私にも見せろ」


 胸が跳ねる。


「なぜですの?」


「君が怖がっているものを、私も確認する」


 静かな言葉だった。


 守る、と言ったわけではない。


 助ける、とも言っていない。


 ただ、確認すると。


 それがレオンハルトらしくて、だからこそ頼もしい。


「……はい」


 ミトは小さく頷いた。


「一人で抱え込むな」


 その言葉は、短く、強かった。


 ミトは返事をするまでに少し時間がかかった。


「努力します」


「努力ではなく、実行しろ」


「厳しいですわ」


「必要だからな」


 そのやり取りに、カイルが小さく笑う。


 ミトも、ほんの少しだけ笑った。


 怖さは消えない。


 リリアは来る。


 学園は始まる。


 断罪の未来があるのかどうかも、まだ分からない。


 けれど、今日、ミトは一つ知った。


 怖いものは、知らないまま遠ざけるだけではなく、確かめてもいいのだと。


 そして、自分で選んだものは、大事にしてもいいのだと。



 馬車が門の向こうへ消えたあと、ミトはしばらく玄関広間に立っていた。


 胸元には、紺地に金糸のリボンがある。


 正式な制服ではない。まだ仮の飾りだ。けれど、今日ミトが自分で選び、レオンハルトに似合うと言われたものだった。


「ミト」


 エヴァルドが隣に立つ。


「疲れた?」


「少し」


「よく頑張ったね」


「子ども扱いですわ」


「十六歳でも、妹は妹だから」


 ミトは少しだけ唇を尖らせたが、嫌ではなかった。


 エヴァルドはミトの胸元のリボンを見て、柔らかく目を細める。


「それ、気に入った?」


「……はい」


「なら、正式な制服にも合うように仕立て師に伝えておこう」


「お兄様」


「うん?」


「私が、伝えます」


 エヴァルドは少しだけ目を見開いた。


 ミトは胸元のリボンに触れたまま、もう一度言う。


「私が選んだものですから、私が伝えます」


 数秒の沈黙。


 それから、エヴァルドはとても静かに笑った。


「うん。そうだね」


 その笑顔は、いつものように優しい。


 けれど、少しだけ寂しそうでもあった。


 ミトはそれに気づいた。


 気づいてしまった。


 選ぶということは、誰かの手を少し離すことでもあるのかもしれない。


 それでも、離れすぎる必要はない。


 完全に拒絶する必要もない。


 ミトは少し迷ってから、エヴァルドを見上げた。


「お兄様」


「うん?」


「伝えるとき、一緒にいてくださいますか?」


 エヴァルドの表情が、ほんの少し柔らかくなる。


「もちろん」


「でも、決めるのは私です」


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


 ミトはじっと兄を見る。


 エヴァルドは少しだけ困ったように笑った。


「信用がないな」


「お兄様は優しすぎますので」


「それは困ったね」


「はい。困ります」


 二人で少しだけ笑う。


 その笑いは穏やかで、優しくて、けれど以前とは少しだけ違った。


 ミトは屋敷の奥へ向かう前に、もう一度だけ学園の封筒を見た。


 王立アルディシア学園。


 入学まで、あと三か月。


 本物のヒロインが来る。


 物語が始まる。


 けれどミトは、もうただ逃げるだけの十歳の少女ではない。


 怖いなら、知る。


 迷うなら、選ぶ。


 選べないなら、保留にする。


 そして大事なものは、自分の手で大事にすると決める。


 胸元のリボンが、夕方の光を受けて小さく輝いた。


 それはまるで、始まりの印のようだった。

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