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第18話 近づく日、揺れる心

 交流会当日まで、あと四日。


 日付が一つ減るだけで、胸の奥に落ちる重さが少し変わる。昨日まではまだ遠く感じられたものが、今日は確かに近づいている。朝の支度を終え、鏡の前に立ったミトは、自分の顔をじっと見つめた。


 淡いローズピンクの髪は、侍女の手で丁寧に整えられている。瞳も、頬も、唇も、いつもと大きく変わらない。けれど自分には分かる。少し緊張している。笑えば隠せる程度だが、胸の中にはまだ落ち着かないものがある。


 リリア・フェルナ。


 その名前を知ってから、ミトの日常は少しずつ変わっていた。食事の味が分からなくなるほどではない。眠れないほどでもない。けれど、何をしていても、ふとした瞬間にあの名簿の文字が浮かぶ。


 特待生代表。光属性補助魔法および治癒適性。フェルナ男爵家養女。


 ゲームで見たヒロインとは、少し違う。けれど、間違いなく彼女だ。物語の中心へ向かって歩いてくる少女。まだ会っていないのに、もうずっと前から知っている気がする相手。


(名簿は人間ではない)


 カイルの言葉を思い出す。


 その通りだ。名前も肩書きも、彼女自身ではない。会って、話して、見なければ分からない。分かっている。分かっているのに、心は簡単には納得してくれない。


「お嬢様、髪飾りはこちらでよろしいでしょうか」


 侍女が小さな薔薇細工の髪飾りを持ち上げた。交流会用ではなく、普段使いの控えめなものだ。薄い銀ではなく、淡い白に近い色をしている。


「ええ。それでお願いします」


「かしこまりました」


 侍女の指が髪に触れる。手慣れた動きで飾りが留められ、鏡の中のミトが少しだけ整う。


 整えられることが、嫌なわけではない。誰かに手をかけてもらうことは、温かいことだ。けれど、それに慣れすぎると、自分の輪郭が薄くなる気がする。


 だから最近は、ひとつだけ自分で決めるようにしている。


 今日は、髪飾り。


 昨日は、リストに書き加える項目。


 その前は、ドレスの生地。


 小さな選択ばかりだ。でも、積み重ねれば、自分の足元になるかもしれない。


「お嬢様」


「はい」


「本日は、午前に礼法の確認、午後に交流会の会場配置の確認がございます。その後、エヴァルド様が少しお時間を取られるとのことです」


「分かりました」


「ご無理はなさらないでくださいませ」


 侍女の声は柔らかかった。


 ミトは鏡越しに微笑む。


「ありがとう。でも、大丈夫ですわ」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 大丈夫。


 たぶん、と付けなかった。


 少しずつだが、前へ進めているのかもしれない。



 礼法の確認は、想像以上に細かかった。


 交流会は正式な式典ではない。だが、参加者の顔ぶれを考えれば、軽く見ていい場でもない。王族、高位貴族、推薦枠、特待生。それぞれに身分や立場があり、挨拶の順序、視線の置き方、会話の長さ、相手への敬意の示し方が変わる。


 ミトは礼法の教師の前で、何度も挨拶の角度を確認した。


「第一王子殿下への礼は、婚約者としての親しさを含めつつも、場が学園関係者の前であることを忘れないように」


「はい」


「高位貴族のご子息、ご令嬢とは、過度に距離を置きすぎず、しかし親しげになりすぎないように」


「はい」


「特待生に対しては、身分差を強調しすぎないこと。ですが、逆に不自然にへりくだる必要もございません」


 その言葉に、ミトは思わず顔を上げた。


「特待生に対しても、通常通りでよろしいのですね」


「はい。学園の場では、すべての生徒が学ぶ者です。もちろん家格は消えませんが、学園は才を認める場でもあります。相手が特待生であるなら、まずその才に敬意を示すのがよろしいでしょう」


 才に敬意を示す。


 ミトはその言葉を心の中で繰り返した。


 光属性。治癒適性。特待生代表。


 ゲームのヒロインとしてではなく、才を認められた一人の少女として見る。


 それなら、少しできる気がした。


「分かりました」


「ミト様は、どうしても少し構えすぎるところがございますね」


「え」


 教師は穏やかに微笑んだ。


「失礼ながら、最近は特に。何かを失敗しないようにと、とても慎重になっていらっしゃる」


 ミトは言葉に詰まった。


「……見えますか?」


「見る者が見れば」


 それはつまり、交流会でも見える可能性があるということだ。


 ミトは内心で少し焦った。リリアに警戒していることが伝われば、初対面から最悪である。攻略対象たちに不自然だと思われても困る。貴族たちに弱みとして見られるのも面倒だ。


 教師は静かに続けた。


「慎重であることは悪いことではありません。ですが、過度な緊張は相手にも伝わります。相手を恐れているようにも、見下しているようにも見えてしまうことがございます」


「見下すつもりはありません」


「ええ。ですから、そう見えないようにするのです」


 ミトは背筋を伸ばした。


「どうすればよろしいでしょう」


「まず、相手の目を見ること。次に、言葉を急がないこと。最後に、先に結論を決めつけないこと」


 最後の言葉に、胸が小さく鳴る。


 先に結論を決めつけない。


 まさに、ミトが今いちばん気をつけるべきことだった。


「先に結論を決めていると、どれほど丁寧な言葉を使っても、相手には伝わります」


「……はい」


「ミト様は聡明でいらっしゃいます。けれど、聡明な方ほど、会う前に相手を理解したつもりになってしまうことがある」


 痛いところを突かれた。


 教師は何も知らない。前世の記憶も、ゲームも、リリアのことも知らない。けれど、今のミトに必要なことを正確に言っている。


 ミトは小さく息を吸った。


「相手を、見ます」


「はい」


「名や肩書きではなく、その方自身を」


 教師は少し驚いたように瞬きをし、それから柔らかく微笑んだ。


「それがよろしいかと存じます」


 ミトは深く頷いた。


 リストに、もう一つ書き加えようと思った。



 礼法の確認が終わったあと、ミトは少しだけ疲れていた。


 体を動かしたわけではない。けれど、背筋を伸ばし、表情を整え、言葉を選び続けるのは思ったよりも神経を使う。しかも今日は、すべてがリリアに繋がって感じられる。


 相手を見下さない。


 恐れすぎない。


 決めつけない。


 分かってはいるが、簡単ではない。


 廊下を歩いていると、窓の向こうに庭が見えた。薔薇の枝が風に揺れている。その向こうに、かつて何度も隠れた生垣がある。


(少しだけ、逃げたいですわ)


 思った瞬間、足が止まった。


 逃げたい。


 久しぶりに、はっきりそう思った。


 別に大きな理由があるわけではない。ただ疲れた。考えすぎた。少しだけ一人になりたい。誰にも見られない場所で、息を吐きたい。


 十歳の頃なら、そのまま薔薇園へ向かっていただろう。


 十二歳の頃なら、温室の奥へ隠れていたかもしれない。


 今は。


 ミトは窓の外を見つめた。


「逃げるのか、休むのか」


 カイルの声が頭の中に響く。


 正確には、彼はそんな言い方をしていない。けれど、聞かれた気がした。


 逃げるのか。


 休むのか。


 似ているようで、違う。


 逃げるのは、向き合わないため。


 休むのは、向き合うために息を整えること。


 ミトはしばらく窓の外を見つめ、それから廊下に控えていた侍女へ振り返った。


「少しだけ庭を歩きたいですわ」


「お一人でございますか?」


「いいえ。あなたも一緒に。長くはかかりません」


「かしこまりました」


 言えた。


 隠れずに。


 消えずに。


 休みたいと、言えた。


 そのことに、少しだけ胸が軽くなる。



 庭の空気は、午前より少し温かかった。


 陽射しがやわらかく、葉の隙間から光が落ちている。侍女は少し後ろを歩き、ミトは薔薇園の道をゆっくり進んだ。ここは何度も逃げ込んだ場所だ。生垣の形も、石畳の欠けた場所も、隠れやすい影の位置も覚えている。


 けれど今日は、隠れない。


 ただ歩く。


 それだけのことが、少し不思議だった。


「お嬢様、こちらでお休みになりますか?」


 侍女が東屋を示す。


「ええ」


 ミトは頷き、石造りの椅子に腰を下ろした。風が通る。少しだけ髪が揺れる。いつもなら侍女がすぐ整えてくれるが、今はそのままにしておいた。


 乱れることが、悪いことではない日もある。


 ミトは深呼吸をした。


 怖い。


 やっぱり怖い。


 リリアに会うのが怖い。彼女がゲーム通りのヒロインだったらどうしよう。逆に、まったく違う人だったらどうしよう。自分が勝手に怖がっていただけだったら。自分の警戒心が、相手を傷つけてしまったら。


 怖いことはいくらでもある。


 でも、怖いからこそ、決めつけない。


 それが、今のミトが選んだことだ。


「……大丈夫」


 小さく呟く。


 今度は、たぶんを付けなかった。


 そのとき、庭の向こうから足音が聞こえた。静かで、整った足音。ミトは顔を上げる。


 エヴァルドだった。


「ここにいたんだね」


「お兄様」


 彼はミトの隣へ来ると、侍女に目配せをした。侍女は一礼し、少しだけ距離を取る。


「隠れていたのではありません」


「分かってるよ」


「本当ですか?」


「うん。今日は、休んでいたんだろう?」


 胸の奥が、ふっと緩んだ。


 分かってくれた。


 それだけで、少し泣きそうになる。


「はい」


 ミトは素直に頷いた。


「少し、疲れました」


「礼法の確認?」


「はい。あとは、考えすぎました」


「そっか」


 エヴァルドは責めなかった。どうして疲れたのか、どこが難しかったのか、すぐに解決しようともしなかった。ただ隣に立ち、同じ庭を見た。


 その距離が、今日はありがたかった。


「お兄様」


「うん?」


「私は、リリア様を怖がりすぎでしょうか」


「怖がっている自覚があるなら、大丈夫だと思うよ」


「なぜですの?」


「自覚がない恐れの方が、人を傷つけるから」


 ミトはその言葉を考える。


 自覚がない恐れ。


 たしかに、そうかもしれない。怖いと認められなければ、それを隠すために攻撃的になってしまうかもしれない。相手を悪者にして、自分を正当化したくなるかもしれない。


 それは、嫌だ。


「私は、リリア様を悪者にしたくありません」


「うん」


「でも、私が悪役になるのも嫌です」


「それも当然だね」


「では、どうすればいいのでしょう」


 エヴァルドは少しだけ考えた。


「まずは、どちらにもならないことを選んでいいんじゃないかな」


「どちらにも?」


「うん。相手をヒロインと決めつけない。自分を悪役と決めつけない。ただ、一人の人として会う」


 それは、簡単なようでとても難しいことだった。


 ミトにはゲームの記憶がある。役割を知っている。だから、どうしてもそこに当てはめようとしてしまう。


 でも、エヴァルドの言う通りだ。


 役割ではなく、人として会う。


 それができなければ、何も始まらない。


「……頑張ります」


「うん。でも、頑張りすぎないで」


「加減が難しいですわ」


「それは僕もそう思う」


 エヴァルドは少し笑った。


 ミトも、少しだけ笑う。


 その笑いは小さかったけれど、庭の空気に溶けるように軽かった。



 午後、会場配置の確認があった。


 交流会の会場は、王立アルディシア学園に隣接する迎賓館の小ホール。入学式ほど大きな場ではないが、王族と高位貴族が顔を合わせるには十分な格式がある。送られてきた簡易図には、入口、控え室、庭へ続く扉、歓談用の区画、茶菓の置かれる位置まで記されていた。


 ミトは図面を見ながら、無意識に逃げ道を探していた。


 入口は二か所。庭へ出る扉が一つ。控え室へ続く通路が右手。柱の影になりそうな場所が三つ。


 そこまで考えて、はっとする。


(また隠れる場所を探していましたわ)


 習慣とは恐ろしい。


 ミトはペンで図面の端に小さく書き込んだ。


 逃げ道ではなく、休憩場所。


 物は言いようである。


 けれど、完全な言い訳でもなかった。もし本当に息が苦しくなったとき、一度落ち着ける場所を知っておくのは悪いことではない。逃げるためではなく、戻るための場所として。


 エヴァルドが図面を覗き込む。


「ここは庭へ出られるね」


「はい。休憩場所候補です」


「逃走経路ではなく?」


「休憩場所です」


「そう」


 兄の笑みが少し楽しそうだった。


「なら、誰かに伝えておくといいね」


「誰かに?」


「具合が悪くなったときに、探してもらいやすいように」


 探してもらう。


 その言葉に、少しだけ胸が跳ねる。


 昔は、見つからないために隠れていた。けれど今は、戻るために居場所を知らせる。


 それもまた、変化なのかもしれない。


「では、侍女に伝えておきます」


「うん。それから、殿下にも」


「殿下にも?」


「たぶん、聞かれるよ」


 ミトは少しだけ黙った。


 確かに、聞かれる気がする。


 そして聞かれなくても、なぜか知られている気がする。


「レオンハルト殿下は、どうしてあんなに見つけるのがお上手なのでしょう」


「ミトをよく見ているからじゃないかな」


 エヴァルドは何でもないことのように言った。


 ミトは固まる。


「……そういう言い方は、心臓に悪いです」


「そう?」


「そうです」


「でも、事実だと思うよ」


「お兄様まで」


 ミトは図面に視線を戻した。


 顔が熱くなるのを、どうにか誤魔化す。


 レオンハルトが自分をよく見ている。


 それは分かっている。分かっているのに、改めて言われると落ち着かない。逃げても見つけるのは観察力のせいだと思っていた。けれど、それだけではないのだろうか。


(考えてはいけませんわ)


 今は交流会の準備中である。


 恋愛方向に思考を流すのは危険だ。


 非常に危険だ。


 ミトは図面の上にもう一つ印をつけた。


 庭へ出る扉。


 休憩場所。


 戻るための場所。



 夕方、カイルが再び屋敷へ来た。


 今度はレオンハルトからの伝言ではなく、交流会当日の護衛配置についての確認だった。騎士見習いとはいえ、彼は第一王子の護衛として動くことが多い。ミトの周辺に関わる可能性も高いらしい。


 応接室に通されたカイルは、図面を見てすぐに眉を寄せた。


「ここ、逃げやすそうだな」


「休憩場所です」


「まだ何も言ってねぇ」


「言いましたわ」


「言ってねぇよ」


 ミトは図面の庭へ続く扉を手で隠した。


「これは休憩場所です」


「はいはい」


「本当です」


「分かったって」


 絶対に分かっていない返事だった。


 カイルは図面を覗き込み、控え室の通路、庭の扉、柱の位置を確認する。


「人が多くなったら、この辺は混むな。息苦しくなったら庭に出た方がいい」


「逃げてもいいのですか?」


「休むならな」


「逃げるのと休むのは違うのですね」


「違うだろ」


 やはりそう言う。


 ミトは少しだけ笑った。


「では、当日は休むかもしれません」


「そのときは誰かに言ってから行け」


「誰かに?」


「侍女でも、兄貴でも、殿下でも。俺でもいい」


 最後の言葉が自然すぎて、ミトは一瞬返事が遅れた。


「……カイルでも?」


「何だよ」


「いえ。ありがとうございます」


「別に」


 カイルは視線を逸らす。


 その反応がいつも通りで、ミトは少し安心した。


「カイル」


「あ?」


「交流会で、もし私がリリア様を見て固まっていたら」


「固まる予定なのか」


「可能性として」


「高そうだな」


「否定してほしかったですわ」


「無理だろ」


 ミトは小さく息を吐いた。


「そのときは、何か言ってください」


「何かって何を」


「木には登るな、とか」


「会場に木がなかったらどうすんだ」


「では、庭には走るな、とか」


「それは言う」


「お願いします」


 ミトが真剣に言うと、カイルは少しだけ表情を変えた。


「本当に怖いんだな」


「はい」


 隠さず頷く。


 カイルは少し黙ったあと、図面を指で軽く叩いた。


「怖くても、会うんだろ」


「はい」


「なら、それで十分じゃねぇの」


「十分でしょうか」


「十分だろ。会う前から完璧に平気になれるわけねぇし」


 ミトは目を瞬かせた。


 完璧に平気にならなくてもいい。


 それは、少し意外な言葉だった。


「怖いままでも、いいのですか」


「怖いままでも、変なことしなきゃいいだろ」


「変なこととは」


「木に登る。逃げる。悪役令嬢になるとか言い出す」


「最後は駄目ですの?」


「初対面ではやめとけ」


「初対面でなければ?」


「基本やめとけ」


 ミトは少し笑った。


 怖さは消えない。


 けれど、怖いままでも会えばいい。


 変なことをしなければいい。


 カイルの基準は雑だが、分かりやすかった。



 その夜、ミトはまたリストを開いた。


 十一、怖いままでもいい。変なことをしない。


 書いてから、少しだけ悩む。


 変なこと、の範囲が広すぎる。


 補足として、小さく書き足した。


 木に登らない。走って逃げない。悪役令嬢宣言をしない。


 書き終えてから、自分で頭を抱えたくなる。


 なぜ交流会の準備リストにこんな項目があるのか。


 しかし必要である。


 たぶん。


 ミトは紙を見つめ、ふっと笑った。


 怖いことは怖い。


 けれど、少しずつ輪郭は見えてきている。


 リリアは名簿ではない。


 ヒロインという役割だけでもない。


 会ってみなければ分からない。


 そしてミト自身も、悪役令嬢という役割だけではない。


 逃げるだけの子どもでもない。


 木に登って降りられなくなった十歳の少女でも、完全に守られているだけの公爵令嬢でもない。


 まだ弱い。


 まだ迷う。


 けれど、選ぼうとしている。


 ミトはリストを小箱に戻し、蓋を閉じた。


 交流会当日まで、あと四日。


 その数字は、やはり少し怖い。


 でも昨日よりは、少しだけ呼吸がしやすかった。

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