第11話 逃げるのか、選ぶのか(後編)
午後の予定は、少しだけ変更された。変更された、というより、ミトが変更した。エヴァルドに見守られながらではあるが、庭へ出る時間を自分で選んだ。お茶の時間を少し後ろへずらし、書き取りの続きは夕方に回した。小さなことばかりだ。それでも、自分で口にして決めたことだった。
庭へ向かう途中、玄関広間でレオンハルトと行き合った。
第一王子は窓辺に立っていた。屋敷を訪れていたらしい。銀の髪に光が当たり、淡く輝いている。その姿は十歳の頃からずっと変わらず、静かで、端正で、逃げ場がないほど視線がまっすぐだった。
「ミト」
「レオンハルト殿下」
名前を呼ばれただけで、足が止まる。今日、外で自分で歩いたはずなのに、彼の前ではまだ体が勝手に止まる。
「外に出ていた」
「はい」
「楽しかったか」
問いは短い。責める響きはない。けれど、答えを逃す気もない。
「……楽しかったです」
「そうか」
それだけだった。意外にも、追及はない。ミトは少しだけ肩の力を抜きかける。
「何を選んだ」
やはり来た。
「木苺のタルトですわ」
「なぜ」
同じ問い。門の前でも聞かれた言葉。けれど今度は、少しだけ答えられる気がした。
「綺麗だったからです。あと、少し酸っぱそうで……気になりました」
「酸っぱかったか」
「少し。でも、美味しかったですわ」
「なら、正しい選択だ」
ミトは瞬きをした。
「正しい、ですの?」
「ああ。選んだ理由があり、結果に納得している。なら、その選択は成立している」
レオンハルトらしい言い方だった。感情ではなく、判断として肯定される。それは甘くはない。けれど、不思議と安心した。
「殿下は、何でも理由をお聞きになりますのね」
「理由が分かれば、次が予測できる」
「私の行動を予測なさるおつもりですの?」
「すでにしている」
「……だから毎回見つかるのですわ」
「君は痕跡を残しすぎる」
ミトは少しだけむっとした。
「今は逃げておりません」
「そうだな」
「戻ってきましたの。自分で」
言った瞬間、レオンハルトの視線がわずかに変わった。いつもと同じ青い瞳なのに、ほんの少しだけ深く見える。
「それは、良いことだ」
短い言葉だった。
だが、ミトの胸に残った。
見つけられたのではない。戻ってきた。自分で決めて。そう伝えたことを、彼は否定しなかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、言いたかったのです」
「そうか」
会話はそこで途切れた。けれど、沈黙は不快ではなかった。以前なら逃げ出したくなる距離。今はまだ少し怖いけれど、立っていられる。
ただ、長くはいられない。胸が落ち着かなくなる。
「庭へ行ってもよろしいですか?」
「許可を求める相手は私ではない」
「でも、殿下がここにいらっしゃるので」
「私がいると行けないのか」
言葉に詰まる。
そうではない。そうではないが、彼の視線はいつもミトをその場に留める。動く理由を忘れさせる。
「行きたいなら、行けばいい」
静かに言われる。
ミトは顔を上げた。
「……よろしいのですか?」
「君が行きたいのだろう」
それは、カイルの言葉に少し似ていた。けれど同じではない。カイルの「行けばいい」は雑で、外の風のようだった。レオンハルトの「行けばいい」は静かで、見届けるようだった。
「はい」
ミトは小さく頷いた。
「行ってまいります」
「ああ」
歩き出す。背中に視線を感じる。けれど、引き止められない。ミトは廊下を進みながら、少しだけ不思議な気持ちになった。
(見つける方なのに、今日は止めませんでしたわ)
それがなぜなのかは、まだ分からない。
◇
庭の奥へ向かうと、風が少し強くなっていた。薔薇の枝が揺れ、葉が擦れる音がする。ここは十歳の頃から何度も隠れた場所だ。薔薇園の生垣、温室の影、大きな木。全部、昔の逃走経路である。
ミトは思わず木を見上げた。
「登るなよ」
背後から声がした。
「カイル」
振り返ると、赤い髪の騎士見習いが立っていた。どうやらまだ屋敷にいたらしい。
「なぜ分かりましたの?」
「顔が登る気だった」
「失礼ですわ」
「事実だろ」
「ほんの少し、懐かしんでいただけです」
「その“ほんの少し”が危ねぇんだよ」
カイルは木の幹に視線を向けた。
「今なら登れるかも、とか思っただろ」
「……少しだけ」
「やめとけ」
「降りられますわ」
「そこじゃねぇ」
何度目か分からないやり取りに、ミトは少し笑った。
「今日は、逃げるために登るのではありませんわ」
「じゃあ何のためだ」
「確認です」
「何の」
「私はもう、あの頃の私ではないのかどうか」
言ってから、自分でも少し驚いた。そんなことを考えていたのか、と。
十歳の頃、木に登ったのは逃げるためだった。見つかりたくなくて、関わりたくなくて、未来から逃げたくて。けれど今、同じ木を見上げて思うのは、逃げたいという気持ちだけではなかった。あの頃より少しでも変われているのか、確かめたい。
カイルはしばらく黙った。
「登らなくても分かるだろ」
「分かりますの?」
「ああ」
「どうして?」
「あの頃は降りられなくなって泣きそうな顔してた」
「泣いてませんわ」
「泣きそうではあった」
「細部ですわ」
「重要な細部だ」
カイルは少しだけ笑った。
「今は、登る前に考えてる。それだけで違うだろ」
ミトは木を見上げたまま、ゆっくり瞬きをした。
登る前に考える。逃げる前に考える。戻る前に考える。選ぶ前に考える。それは、小さな変化かもしれない。でも、確かに変化だ。
「……そうかもしれません」
「なら登るな」
「そこに戻りますのね」
「戻る」
カイルの返事は迷いがない。
ミトは木から視線を外し、庭の道へ戻った。
「では、今日は登りません」
「今日は?」
「未来のことは分かりませんわ」
「お前な」
呆れた声が聞こえる。ミトは少しだけ笑いながら歩き出した。
庭の道は、屋敷の中ほど整っていない。小石がある。枝が落ちている。風で髪が乱れる。けれど、その不完全さが少し心地よかった。
今日は、逃げていない。選んで、戻って、また歩いている。
その事実が、胸の奥で小さく灯っていた。




