第10話 逃げるのか、選ぶのか(前編)
十六歳の春は、思っていたよりも静かに近づいていた。
王立アルディシア学園への入学まで、あと三か月。貴族の子女にとっては晴れやかな門出であり、社交の第一歩であり、家の未来を左右する大切な時期だ。けれどミト・ローゼンクランツにとって、その三か月はまったく別の意味を持っていた。
ゲームが、始まってしまう。
乙女ゲーム『偽りのヒロインと真実の恋』。通称『偽ヒロ』。本来なら、ヒロインであるリリアが学園で攻略対象たちと出会い、恋を育み、やがて真実の愛を見つける物語。ミトは、その主役ではない。悪役令嬢ですらないはずだった。ただの公爵令嬢。第一王子レオンハルトの婚約者。物語の中心に近い場所にいながら、本来なら大きく動く役ではない。そう思っていた。そう思いたかった。
けれど現実は、まったく思い通りになっていない。
十歳の頃から、レオンハルトは訪問のたびにミトを見つけた。薔薇園に隠れても、温室に逃げても、木の上に登っても、必ず見つけ出した。兄であるエヴァルドは優しく、穏やかに、ミトが困る前にすべてを整えてくれる。そしてカイルは、呆れながらも手を貸し、余計なことは言わずに、けれど大事なところだけを突いてくる。
このまま学園に入ったら、どうなるのだろう。リリアと出会う。ゲームの本編が動き出す。攻略対象たちが揃う。イベントが起きる。断罪があるのか、ないのか。自分が何を選べば未来が変わるのか、まだ分からない。
だからこそ、今のうちに覚えておかなければならないと思った。逃げることではなく、誰かに整えられることでもなく、自分で選ぶことを。
◇
屋敷へ戻ってからも、木苺のタルトの甘酸っぱさは舌の奥に残っていた。味そのものは、きっと屋敷の菓子職人が作るものの方が上等だ。生地はもっと薄く、果実の酸味はもっと整えられ、見た目も完璧に仕上げられるだろう。
けれど、ミトの中に残っているのは味だけではなかった。
店先で迷った時間。指先で選んだ瞬間。包みを受け取ったときの小さな高揚。広場で食べたときの、少し雑で、少し不安定で、けれど確かに自分のものだった感覚。それらが全部混ざって、胸の奥に小さく残っている。
屋敷の中は相変わらず整っていた。廊下は静かで、磨かれた床には柔らかな光が落ちている。侍女は必要な距離に控え、茶器はいつでも使えるように温められていた。何一つ不都合はない。だからこそ、外から戻ったばかりのミトには、その整い方が少しだけ息苦しく思えた。
(ここは、優しすぎますわ)
危険な場所ではない。むしろ、安全すぎる場所だ。転ぶ前に床は整えられ、迷う前に道は示され、困る前に手が差し出される。ありがたい。感謝すべきことだ。けれど、外で自分の足で歩いてしまったあとでは、その優しさが少しだけ重く感じられる。
「ミト」
廊下の先から声がした。振り返る前に分かる。エヴァルドだ。
「お兄様」
ミトが返事をすると、エヴァルドはいつもの穏やかな微笑を浮かべて近づいてきた。金の髪は乱れひとつなく、柔らかな表情も変わらない。けれど、ミトはその目が自分の手元を見たことに気づいた。
もう中身のない包み紙。小さく畳んだそれを、まだ握っていた。
「楽しかった?」
「はい」
「それならよかった」
優しい声だった。責める気配はない。けれど、次の言葉を待つ空気がある。どこへ行ったのか、何を見たのか、誰と話したのか。聞かれていないのに、聞かれている気がする。
「木苺のタルトを買いましたの」
「そう」
「自分で選びました」
なぜか、先に言っていた。言わなければ、その選択が薄れてしまう気がしたのだ。
エヴァルドは少しだけ目を細める。
「うん。聞いたよ」
「……カイルからですか?」
「いいや。君から」
ミトは瞬きをした。
「今、君がそう言った」
エヴァルドは柔らかく笑う。その笑みは優しい。けれど、逃げ場がないほど正確だった。自分で選んだ、とミトは言いたかった。言わずにはいられなかった。そのことまで、見透かされている。
「お兄様」
「うん?」
「私、また行きたいです」
口にした瞬間、胸が少しだけ鳴った。外へ。あの通りへ。あの店へ。もう一度、自分で選びに行きたい。たったそれだけのことなのに、言葉にするには勇気がいった。
エヴァルドはすぐには答えなかった。沈黙は長くない。けれど、その間にミトは何通りもの返事を想像した。危ないから駄目だよ。次は一緒に行こう。欲しいものがあるなら屋敷で用意するよ。どれも優しくて、どれもミトを守る言葉だ。
「考えようか」
返ってきたのは、それだった。
「考える、ですの?」
「うん。君が行きたいなら、行ける形を考える」
「行ける形……」
「護衛の人数、時間、場所。無理のない範囲でね」
やはり、整えられる。そう思った。けれど以前と違って、完全に飲み込まれる感じではなかった。エヴァルドは否定しなかった。ミトの「行きたい」を消さなかった。ただ、安全な形に変えようとしている。
(これも、優しさですわ)
分かっている。分かっているのに、少しだけもどかしい。
「私、一人で選びたいんですの」
エヴァルドの表情が、ほんのわずかに止まる。
「一人で?」
「本当に一人、という意味ではありませんわ。令嬢として無理なのは分かっています。ただ……全部決められてから行くのではなくて、少しは自分で決めたいのです」
言葉にしながら、自分でも驚いていた。こんなことを兄に言う日が来るとは思っていなかった。エヴァルドはいつもミトのために整えてくれる。そこに反発するのは、わがままのように感じる。けれど、今言わなければ、また流れの中に戻されてしまう。
エヴァルドは静かにミトを見た。
「今日、何かあった?」
「何か、というほどでは」
「カイルと話した?」
ミトは少しだけ視線を揺らした。
「はい」
「そう」
たった一言。その中にどんな感情が含まれているのか、ミトにはすぐに読めなかった。怒ってはいない。けれど、何も思っていないわけでもない。
「カイルは、変なことを言いますの」
「例えば?」
「息が詰まるなら外に出ればいい、とか。選びたいなら選べばいい、とか」
「彼らしいね」
「雑ですわ」
「うん」
「でも、少しだけ楽でした」
言ってから、ミトはしまったと思った。エヴァルドの前で、他の誰かといると楽だと言うのは、ひどく残酷なことのように感じたからだ。
けれどエヴァルドは、怒らなかった。ただ、少しだけ笑みを淡くした。
「そっか」
「お兄様、私は……」
「分かってるよ」
遮る声は優しかった。けれど、その優しさに甘えてはいけない気がした。
「分かってないかもしれないけど、分かりたいとは思ってる」
その言葉に、ミトは何も返せなかった。エヴァルドはいつも完璧で、何でも分かっているように見える。けれど今、彼は分かりたいと言った。
「君が自分で選びたいなら、それは大事なことだね」
「……はい」
「でも、危ないことは駄目だよ」
「はい」
「木に登るのも駄目」
「それは昔の話ですわ」
「今も登りそうだから言ってる」
ミトは目を逸らした。
「……少しだけなら」
「駄目」
即答だった。ミトは小さく唇を尖らせる。
「カイルにも同じことを言われましたわ」
「なら、彼は正しいね」
「皆様、私を木に登らせたくないのですね」
「普通は登らせたくないよ」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。エヴァルドはミトの手元に視線を落とし、畳まれた包み紙を見つめる。
「それ、大事?」
「はい」
「捨てないの?」
「今日、自分で選んだ証ですもの」
エヴァルドは数秒黙ったあと、そっと手を差し出した。
「なら、箱を用意しようか。思い出を入れるもの」
いつものように、すぐ整えようとする。けれど今度は、不思議と嫌ではなかった。包み紙を奪われるのではない。残す場所を用意してくれるのだ。
「……小さい箱でお願いします」
「うん。君が選ぶ?」
ミトは顔を上げた。
エヴァルドは少しだけ困ったように笑う。
「箱も、君が選んだ方がいいんだろう?」
胸の奥が、ふっと緩んだ。
「はい」
その返事は、さっきよりずっと自然に出た。




