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第9話 外の空気は、少しだけ自由だった(後編)

 菓子店の横には、小さな広場があった。噴水を囲むようにベンチが並び、昼前の光が石畳に落ちている。人通りは多くない。馬車の音も少し遠く、屋敷の中とは違うざわめきが、薄く空気に混じっていた。


 ミトは侍女の位置を確認してから、広場の端へ向かった。カイルは当然のように少し離れて歩く。近すぎない。でも、何かあれば届く距離。追ってこない。囲わない。ただ、いなくならない。その距離が、今のミトには少しだけありがたかった。


「ここで食べるのか」


「ええ。せっかく自分で選びましたから」


「菓子一つで大げさだな」


「大げさではありませんわ。これは、自分で選ぶ練習ですもの」


「練習?」


「はい。私は今、自分の意思で木苺のタルトを選び、購入し、食べようとしています」


「やっぱり大げさだろ」


 カイルは呆れたように言ったが、笑わなかった。馬鹿にするでもなく、止めるでもなく、ただその場にいる。ミトはベンチに腰を下ろし、包みを開いた。木苺のタルトは小さく、赤い実が宝石のように光っている。


「綺麗ですわ」


「食うもんだろ」


「見た目も大事ですわ」


「そういうもんか」


「そういうものです」


 ミトは小さく一口食べた。甘酸っぱい。思っていたより酸味が強くて、思わず目を瞬かせる。カイルが少しだけ口元を緩めた。


「酸っぱいか」


「少し。でも、美味しいですわ」


「ならよかったな」


「はい」


 それだけの会話だった。けれど、穏やかだった。屋敷の中で用意される完璧な菓子とは違う。形も少し不揃いで、味も予想より酸っぱくて、包み紙は指先で少しだけかさつく。それなのに、妙に嬉しい。選んだのは自分だと思えるからだ。


 ミトはタルトを見つめながら、胸の奥に生まれた小さな満足感を確かめた。誰かに用意されたものではない。自分が窓辺で悩み、迷い、これにすると決めたものだ。たったそれだけなのに、心の中に小さな灯がともったような気がした。


「カイルは、こういうものを召し上がります?」


「あんまり」


「甘いものは苦手ですの?」


「嫌いじゃねぇけど、食う機会がない」


「では、一口いかがです?」


 言ってから、ミトは固まった。令嬢としてどうなのか。買った菓子をその場で、しかも男性に勧める。礼法としては微妙かもしれない。けれど、悪役令嬢ならこれくらい大胆なことをするのではないか。いや、悪役令嬢以前に、これはただの分け合いではないのか。


 頭の中で礼法と悪役令嬢修行と前世の記憶が入り乱れる。カイルも一瞬だけ固まったが、すぐに困ったような顔をした。


「……いいのか」


「ええと……悪役令嬢なら、これくらい大胆なことをするかと」


「判断基準がおかしい」


「では、普通の令嬢としては?」


「知らねぇよ」


 そう言いながらも、カイルは手を出した。ミトは小さく割ったタルトを包み紙の上に乗せて渡す。カイルはそれを受け取り、口に入れた。


「酸っぱいな」


「でしょう?」


「でも、悪くねぇ」


「でしょう?」


 なぜか少し誇らしかった。自分で選んだものを、誰かが悪くないと言ってくれる。それだけで、選んだことが少し正しかった気がする。


 ミトは残りのタルトを見つめた。もう半分ほどしかない。それが少しだけ惜しい。


「また買いに来たいですわ」


「来ればいいだろ」


「簡単に言いますのね」


「難しいのか」


「たぶん、少し」


「じゃあ、少し頑張れ」


 カイルの言葉は雑だ。けれど、不思議と突き放す感じはしなかった。少し頑張れ。頑張りすぎなくていい。全部うまくやらなくていい。ただ、自分の足で少しだけ動けばいい。そんなふうに聞こえた。


 ミトはタルトを食べ終え、包み紙を丁寧に畳んだ。甘酸っぱさが舌に残っている。


「少し、頑張りますわ」


「おう」


 カイルは短く返す。その声はいつも通りぶっきらぼうで、それでも少しだけ優しかった。



 広場を離れる頃には、日が少し高くなっていた。約束の時間を考えると、そろそろ屋敷へ戻らなければならない。ミトは名残惜しく通りを見た。何をしたわけでもない。本を眺めて、菓子を一つ買って、広場で食べただけ。それなのに、胸の中には確かな満足感がある。


(私が選んだ)


 たったそれだけ。けれど、それだけが嬉しかった。


「戻るのか」


 カイルが聞く。急かす声ではなかった。ただ、確認する声だ。ミトは少しだけ黙った。


 戻らなければならない。屋敷には兄がいる。レオンハルトが来ているかもしれない。予定もある。令嬢としての務めもある。でも、もう少しだけ外にいたい。その気持ちも確かにある。どちらを選ぶべきなのか、ミトは迷った。


 カイルは待っている。答えを先に置かない。急かさない。整えない。ミトの中から答えが出てくるまで、ただそこにいる。


「……戻りますわ」


「いいのか」


「はい。今日は、自分で出てきました。自分で選んで、買い物もしました。だから、戻るのも自分で決めますわ」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。逃げるのではなく、戻る。押し戻されるのではなく、自分で帰る。同じ屋敷へ向かう行動でも、意味は少し違う。


 カイルはミトを見て、ふっと短く笑った。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、戻るか」


「送ってくださるの?」


「途中までな。護衛が令嬢を放って帰ったら怒られる」


「誰に?」


「いろんなやつに」


 それはたしかにそうだ。ミトは少し笑い、歩き出した。帰り道、カイルは隣ではなく少し後ろを歩いた。護衛としての距離。けれど遠くない。振り返れば、ちゃんとそこにいる。


「そういえば」


「何だ」


「もう木には登りませんわ」


「急に何の話だ」


「幼い頃、カイルに助けていただきましたでしょう? あのときの反省を活かして、今の私は降りられる場所にしか登りませんの」


「登る前提なのかよ」


「悪役令嬢には高所から見下ろす場面も必要かと」


「必要ねぇよ」


「そうですの?」


「少なくとも、お前には必要ねぇ」


「なぜですの?」


「降りられなくなるからだ」


「もう降りられますもの」


「信用できねぇ」


 ミトは少しだけ頬を膨らませた。カイルは視線を逸らしたまま、口元だけで笑う。そのやり取りは軽くて、くだらなくて、けれど大事だった。幼い頃の失敗が、今は笑い話になっている。木の上で泣きそうになったあの日も、今のこの距離へ繋がっている。


 閑話のような、何でもない記憶。けれど、そういうものが後から道になるのかもしれない。



 屋敷の門が見えてくる。見慣れた景色。整えられた世界。そこへ戻るのだと思うと、胸の奥が少しだけ重くなった。けれど今日は、完全に沈み込むような感覚ではない。


 外を知ったから。戻ることを、自分で決めたから。包み紙の中身はもうないけれど、手の中にはまだ、選んだ感触が残っている。


「ミト」


 門の手前で、声がした。低く、静かで、聞き慣れた声。ミトの足が止まる。


 視線を上げると、門の内側にレオンハルトが立っていた。銀の髪が光を受けて淡く輝き、青い瞳がまっすぐこちらを見ている。その隣には、エヴァルドもいた。柔らかな金の髪。穏やかな微笑。けれど、その空気はいつもより少しだけ静かだった。


(……見つかった)


 そう思って、すぐに違うと気づく。今日は逃げていない。勝手に消えたわけでもない。外へ出ると伝えて、自分で選んで、戻ってきた。だからこれは、見つかったのではない。戻ったのだ。


 それでも、レオンハルトの視線に捉えられた瞬間、外の空気が少し遠くなる。エヴァルドの目がカイルへ向く。カイルは足を止めた。


「殿下」


 短く頭を下げる。レオンハルトは一度だけ視線を動かし、すぐにミトへ戻した。


「外に出ていたのか」


「……はい」


 答える声が少しだけ小さくなる。さっきまで、自分で選んだと言えていたのに。この二人を前にすると、やはり呼吸が浅くなる。


 エヴァルドが静かに微笑む。


「気分転換はできた?」


「はい、お兄様」


「そう。よかった」


 優しい言葉。いつも通り。でも、少しだけ違う。どこへ行ったのか。誰といたのか。何を選んだのか。確認されている気がした。責められているわけではないのに、手の中の包み紙を隠したくなる。


「何を買った」


 レオンハルトが問う。


「木苺のタルトですわ」


「なぜそれを」


 一瞬、答えに詰まる。なぜ。好きだから。綺麗だったから。食べたかったから。それだけでいいはずなのに、理由を求められると急に言葉が難しくなる。


 そのとき、後ろからカイルの声がした。


「自分で選んでましたよ」


 ミトは振り返る。カイルはいつも通りの顔で立っていた。


「悩んで、自分で決めてました」


 それだけ。でも、その言葉に救われた気がした。カイルは答えを代わりに作らない。ただ、ミトが選んだ事実だけをその場に置いてくれる。


 レオンハルトの視線がカイルへ向く。静かな数秒。カイルは引かない。エヴァルドは微笑んだまま、何も言わない。空気が少しだけ張り詰める。


 ミトはその中央で、包み紙を握りしめた。ここで黙れば、また流れに戻される気がした。外で選んだものが、なかったことになってしまう気がした。


「私が選びました」


 小さく、けれどはっきり言う。


 レオンハルトの視線が戻る。


「そうか」


 短い返事。それだけだった。けれど、否定ではなかった。


 エヴァルドが柔らかく微笑む。


「それなら、次は屋敷の菓子職人にも作らせようか」


 優しい提案だった。ミトが気に入ったものを、次はもっと安全に、もっと綺麗に、もっと完璧に用意しようとしてくれている。以前なら、きっと頷いていた。ありがたいと思い、楽だと思い、そのまま受け入れていた。


 でも、今日は違った。


 木苺のタルトは、屋敷で再現されたら同じものではなくなる。味だけなら、きっと屋敷の菓子職人の方が上手に作る。でも、窓辺で迷って、自分で選んで、包みを受け取ったあの感じは、屋敷の中では作れない。


「また、自分で買いに行きたいですわ」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 エヴァルドの笑みが、ほんのわずかに止まる。レオンハルトの目が細くなる。カイルは何も言わない。ただ、少しだけ口元を緩めた。


「……そう」


 エヴァルドが静かに言う。


「なら、また考えようか」


 完全な許可ではない。でも、否定でもない。ミトは小さく頷いた。


「はい」


 その返事は、さっきより少しだけ自分の声に近かった。



 門をくぐると、屋敷の空気が戻ってくる。整えられた庭、磨かれた石畳、静かな使用人たちの気配。外のざわめきは背後へ遠ざかり、代わりにいつもの穏やかな秩序がミトを包んだ。


 それでも、胸の奥に残るものは消えなかった。木苺の甘酸っぱさ。カイルの「少し頑張れ」という雑な励まし。自分で選んだという小さな実感。逃げたのではなく、戻ると決めたこと。


 レオンハルトは見つける。エヴァルドは整える。カイルは選ばせる。


 その違いが、今日初めてはっきりした気がした。


 ミトはそっと息を吐く。完全な自由ではない。逃げ道も、まだ遠い。けれど、外の空気を知ってしまった。自分で選ぶ感覚を、覚えてしまった。


(また行きたい)


 その小さな願いは、確かに残っている。


 そしていつか、この小さな選択が、もっと大きな選択へ繋がるのかもしれない。誰かに見つけられる前に。誰かに整えられる前に。自分で何かを選ぶために。


 ミトは畳んだ包み紙をそっと握り直し、屋敷の中へ足を踏み入れた。

 今日は、逃げたのではない。

 自分で選んで、戻ってきたのだ。

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