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第8話 外の空気は、少しだけ自由だった(前編)

 屋敷の外へ出た瞬間、空気の軽さに気づいた。


 同じ朝の光でも、窓越しに見るものとは違う。肌に直接触れる風は少し冷たく、薔薇園の香りは淡く、遠くで馬車の車輪が石畳を叩く音がした。整えられた室内の静けさとは違う、少しだけ雑で、少しだけ騒がしくて、けれど息がしやすい空気だった。


 ミト・ローゼンクランツは門へ向かう道を歩きながら、小さく息を吸い込んだ。深く吸って、ゆっくり吐く。それだけのことなのに、胸の奥が少し緩む。


(……外だ)


 当たり前のことを、改めて思う。屋敷の中にいれば、すべてが整っている。朝食も、予定も、教材も、休む時間さえも。兄であるエヴァルドは優しく、穏やかで、ミトが困る前にすべてを用意してくれる。


 それは、とてもありがたい。ありがたいはずなのに、昨日から胸の奥に残っている違和感が消えない。


(楽すぎるのは、やっぱり危ないですわ)


 机の上に置かれた教材。開かれたページ。用意された席。温かい飲み物。軽めの朝食。自分が何かを選ぶ前に、すべてが選ばれている状態。嫌ではなかった。むしろ、居心地がよかった。だからこそ怖かった。


 ここにいればいい。そう思ってしまった瞬間、何か大事なものを手放してしまう気がした。だから今日は、外へ出ることにした。


 もちろん、完全に自由というわけではない。公爵令嬢が一人で屋敷の外を出歩けるはずもない。門の近くには護衛がいるし、少し離れた場所には侍女も控えている。行き先だって、屋敷からそう遠くない商店通りまでと決められていた。


 それでも、屋敷の中で選ばされるよりは、ずっとましだと思った。


(今日は、私が選ぶんですの)


 そう決めて、ミトは歩幅を少しだけ大きくした。といっても、令嬢らしさを崩さない程度に。うっかり走れば侍女が飛んでくる。過去に何度かやった。そして止められた。


 門を抜けると、街の音が近づいた。貴族街の端にある通りは落ち着いていて、庶民の市場ほど賑やかではない。それでも、屋敷とは違う。馬の嘶き、店先で品物を並べる音、遠くで交わされる笑い声。すべてが少しずつ重なって、外の空気を作っている。


 ミトはその音を聞きながら、ふと口元を緩めた。


「本当にお出かけになってよろしかったのですか?」


 後ろから侍女の声がかかる。ミトは振り返り、できるだけ落ち着いた顔を作った。


「ええ。少し、気分転換が必要だと思いましたの」


「エヴァルド様には?」


「お伝えしましたわ」


 嘘ではない。出かける、と伝えた。ただし、伝えた瞬間にエヴァルドが微笑みながら「なら護衛を増やそうか」と言いかけたので、ミトは全力で首を横に振った。


 結果として、護衛は通常通り。侍女も一人。行き先も近場。時間も短め。自由とは何か、少し考えさせられる条件ではあったが、それでも外には出られた。


(勝ちですわ)


 小さく心の中で拳を握る。些細な勝利である。だが、今のミトには大切だった。


 通りに出ると、石造りの店が並んでいた。菓子店、装飾品店、書店、布地を扱う店。どれも貴族向けの上品な佇まいで、窓辺には季節の花が飾られている。


 ミトはまず、書店の前で足を止めた。店先に並んだ新刊を眺める。歴史書、詩集、礼法書、魔法理論の入門書。思わず目が止まったのは、『貴族令嬢のための社交術』という本だった。


(これは……悪役令嬢にも必要な知識では?)


 手に取ろうとして、やめる。いや、悪役令嬢を目指すならむしろ読んではいけないのではないか。社交術を磨けば普通に良い令嬢になってしまう。けれど知識として敵を知ることは重要だ。いや、敵とは誰か。社交か。礼法か。未来か。


 ミトが真剣に悩んでいると、横から低い声が落ちた。


「何を難しい顔してんだ」


 聞き覚えのある声だった。ミトはぱっと顔を上げる。赤い髪。日差しに少し眩しそうに目を細める表情。騎士見習いらしい実用的な服装。腰には訓練用ではない剣。


「カイル様」


「様はいらねぇって、前にも言っただろ」


「では、カイルさん」


「それも変だな」


「カイル殿?」


「もっと変だ」


 ミトは少し考えた。


「カイル」


「それでいい」


 短く返したカイルは、店先の本へ視線を落とした。


「で、何を睨んでたんだ」


「睨んではおりませんわ。悪役令嬢として読むべきか、読まざるべきか悩んでいましたの」


「何を?」


「社交術の本ですわ」


 カイルは数秒黙った。


「悪役令嬢って社交術いるのか?」


「おそらく必要ですわ。悪役令嬢は舞踏会や茶会で目立つものですから」


「なる気なのかよ」


「修行中ですの」


「やめとけ」


 即答だった。ミトは少しだけむっとする。


「なぜですの?」


「向いてねぇから」


「それは以前、木から降りられなかった件を根に持っていらっしゃる?」


「あれは悪役令嬢以前の問題だろ」


 カイルは呆れたように言う。その調子が、懐かしかった。


 十歳の頃、木の上で降りられなくなったミトを助けてくれた少年。あのときも、彼は呆れた顔をしていた。けれど手を貸してくれた。怒らず、責めず、ただ「降りろ」と言ってくれた。


 レオンハルトのように見つけ出すわけでもなく、エヴァルドのように先回りして整えるわけでもない。カイルは、そこにいて、必要なら手を出す。その距離が、少しだけ楽だった。


「今日は護衛ですの?」


「ああ。殿下の用でこっちに来てた。今は別行動」


「レオンハルト殿下も近くに?」


「今は公爵邸の方じゃねぇの。俺は使い走りみたいなもんだ」


「使い走りだなんて」


「事実だ」


 カイルは肩をすくめる。卑屈な言い方ではない。ただそういう役割だと言っているだけだった。


 ミトは書店の前から少し離れ、通りの端へ移動する。カイルも自然についてきた。近すぎず、遠すぎず。護衛のようで、友人のようでもある距離。それが不思議だった。


「一人で出てきたのか」


「侍女がおりますわ」


「護衛は?」


「門の近くに」


「それ、一人で出てきたのとあんま変わんねぇだろ」


「ちゃんと許可は得ましたの」


「誰の」


「お兄様の」


 カイルは露骨に顔をしかめた。


「よく許したな」


「かなり条件つきでしたわ」


「だろうな」


「でも、外に出られましたので、私の勝ちですわ」


「何と戦ってんだ」


「運命と」


「でかいな」


 返しが早い。ミトは思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。


 笑ってはいけない理由はない。けれど、なぜか笑うことに少しだけ驚いた。屋敷の中では、最近ずっと考えていた。これは正しいのか。逃げられているのか。選んでいるのか。選ばされているのか。けれどカイルと話していると、思考が少し軽くなる。


 答えを求められない。正しさを示されない。ただ、投げた言葉がそのまま返ってくる。それが楽だった。


「何笑ってんだ」


「いえ。少し、懐かしくて」


「木から降りられなかった話か」


「忘れてくださいませ」


「無理だろ。初対面が木の上の令嬢なんて、そうそう忘れねぇよ」


「では、記憶の中で優雅に降りたことにしていただけません?」


「落ちかけたろ」


「細部ですわ」


「重要な細部だ」


 ミトはとうとう小さく笑った。その瞬間、カイルが少しだけ目を丸くする。


「何ですの?」


「いや」


「何かおかしかったです?」


「別に」


 そう言いながら、彼は視線を少し逸らした。その反応が少し気になったが、追及はしなかった。カイルは追ってこない。だから、こちらも追い詰めない。それくらいの距離が、ちょうどいい気がした。


 通りを少し歩くと、小さな菓子店があった。窓辺には焼き菓子が並び、甘い香りが外まで漂っている。ミトは足を止めた。


「食うのか」


「見ているだけですわ」


「欲しい顔してるけど」


「令嬢はそう簡単に買い食いしませんの」


「悪役令嬢になるんじゃなかったのか」


 ミトははっとした。


「……確かに」


「そこで納得すんな」


「悪役令嬢なら、買い食いくらい堂々とするべきかもしれませんわ」


「いや、別に悪役じゃなくても買えばいいだろ」


「そうなのですか?」


「そうだろ」


 カイルは店の方を顎で示す。


「欲しいなら買えばいい」


 簡単に言われる。ミトは少しだけ戸惑った。


 欲しいなら買えばいい。その言葉は、あまりにも単純だった。屋敷の中では、何かを選ぶ前に用意されている。欲しいものは揃えられる。困る前に整えられる。だから、欲しいと言う必要がない。


 けれど今は違う。欲しいなら、自分で選ぶ。買うか買わないかも、自分で決める。たったそれだけのことに、胸が少しざわつく。


「……では、一つ」


「おう」


「でも、どれにしましょう」


「好きなの選べばいいだろ」


「好きなもの……」


 ミトは窓辺の焼き菓子を真剣に眺めた。蜂蜜のクッキー、木苺のタルト、小さな砂糖菓子、薄く焼いたナッツ入りの菓子。どれも可愛らしい。


 選べない。選べないが、選ばなくてはいけない。


(これが……自由の重み)


「菓子一つでそんな顔すんな」


「重要ですわ。自分で選ぶ練習ですもの」


「練習?」


「ええ。私は今、自分の意思で焼き菓子を選ぼうとしています」


「大げさだな」


「でも、大事ですわ」


 口に出してから、少しだけ恥ずかしくなる。菓子を選ぶことくらい、普通のことだ。大げさに言うようなことではない。けれどカイルは笑わなかった。呆れた顔はしたが、馬鹿にはしなかった。


「じゃあ、ちゃんと選べ」


 そう言うだけだった。


 ミトはもう一度菓子を見る。そして、木苺のタルトを指差した。


「これにしますわ」


「決まったな」


「はい」


 小さな達成感があった。店に入り、タルトを一つ買う。包みを受け取った瞬間、妙に嬉しかった。たかが焼き菓子一つ。けれど、自分で選んだものだった。


 店を出ると、カイルが通りの端で待っていた。


「買えたか」


「買えましたわ」


「よかったな」


「はい」


 ミトは包みを大事に持つ。カイルはそれを見て、少しだけ視線を柔らかくした。


「そんなに嬉しいのか」


「はい。自分で選びましたので」


「普段選ばねぇのか」


 問いは何気なかった。けれど、胸に引っかかった。


 普段、選んでいるだろうか。衣装も、予定も、食事も、学びも。選んでいるようで、整えられている。選ばされている。そう気づいたばかりだった。


「……選んでいるつもりでしたわ」


 思わず、そう答えていた。


 カイルは何も言わない。ただ、こちらを見る。促すわけでもなく、遮るわけでもない。だから、言葉が続いた。


「でも、最近よく分からなくなりましたの。私は自分で決めているつもりなのに、気づくと全部、最初から用意されていますの。困らないように。迷わないように。失敗しないように」


 言ってから、しまったと思う。こんなことを話すつもりはなかった。


 カイルは黙っていた。真面目な顔で、ただ聞いている。


「贅沢な悩みですわね」


 自分でそう付け足す。困らないようにしてもらえることは、ありがたいことだ。守られている。大事にされている。それを嫌だと思うのは、わがままかもしれない。


 けれど。


「でも、少しだけ……息が詰まるときがありますの」


 言ってしまった。風が通りを抜ける。包みの紙がわずかに音を立てた。


 カイルはしばらく黙っていた。そして、短く言った。


「じゃあ、たまには外出りゃいい」


「え?」


「息が詰まるなら、外に出る。選びたいなら、選ぶ。それだけだろ」


 あまりにも簡単に言われて、ミトは瞬きをする。


「それだけ、ですの?」


「それだけじゃねぇの」


「でも、お兄様が心配しますわ」


「心配はするだろうな」


「レオンハルト殿下も……たぶん、見つけますわ」


「見つけるだろうな」


「それでは結局、逃げられませんわ」


「逃げるのか、外に出るのか、どっちだよ」


 ミトは言葉に詰まった。


 どっち。その問いは、思っていたより鋭かった。逃げたいのか。外に出たいのか。同じようで、違う。逃げるのは、誰かから遠ざかること。外に出るのは、自分の足でどこかへ行くこと。


 ミトはその違いを、今まで曖昧にしていたのかもしれない。


「……分かりませんわ」


 正直に答える。カイルは少しだけ肩をすくめた。


「なら、分かるまで考えればいいだろ」


「急がなくていいんですの?」


「誰かに急かされてんのか」


「運命に」


「またでかいやつ出たな」


 呆れた声に、ミトは少し笑った。でも、胸の奥は少しだけ軽くなっていた。


 カイルは答えをくれない。けれど、問いを戻してくれる。それが、レオンハルトともエヴァルドとも違った。


 レオンハルトは見つける。エヴァルドは整える。カイルは、聞く。どうしたいのか。自分で決めろ、と言う。


 それは少し怖い。けれど、外の空気に似ていた。雑で、不安定で、整っていない。でも、息がしやすい。

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