対話
深い谷へと続く道は、昼なお暗かった。
切り立った岩肌が太陽を遮る。風は通るはずなのに、どこか息苦しい。
オジロワシのアハヌすら、この場所には降りてこない。
パトリック・オコンネル少尉は、無言で馬を進めていた。
その後ろに、二人の兵士が続く。
一人は無口な古参兵。もう一人は——視線の動きが妙に鋭い男。
情報部の人間だ。
(やっぱり気に入らない……)
案内役のPNの青年の背を見ながら、パトリックは胸の内で呟いた。
軍人としては理解できる。
少しでも内情を探るために必要なことだ。
客観的な情報というやつだ。
要は自分は操り人形、道化なのだ。
これは裏切りに近いと感じた。
相手、BLACKWOLFは真剣だ。
だが、こっちは道化が相手だ。
申し訳なかった。
だが、軍人として果たすことには抵抗はない。
「……着いた」
案内役が低く言った。
谷の奥、開けた場所。
そこに、一人の男が立っていた。
黒い衣装。
風に揺れる長い髪。
そして——ただ立っているだけで、周囲の空気を支配する存在。
BLACKWOLF。
パトリックは馬を降りた。
銃は持たない。
BLACKWOLFも同じだった。
互いに数歩の距離で向き合う。
「……来てくれたか」
先に口を開いたのはBLACKWOLFだった。
その声は静かだったが、どこか疲れていた。
「呼ばれれば来るさ。話があるんだろ」
パトリックは肩をすくめて答える。
短い沈黙。
やがてBLACKWOLFは、ゆっくりと口を開いた。
「……村の強制移住を、やめてほしい」
風が止まったように感じた。
「——あれが続けば、若い戦士たちは抑えきれない」
「すでに限界に近い」
「このままでは……戦いは、もっと大きくなる」
その言葉には、怒りではなく——焦りがあった。
パトリックは目を細める。
「……つまり、お前が止めてるってことか?」
「できる限りは」
BLACKWOLFは迷わず答えた。
「だが、土地を奪われ、家族を奪われた者たちの怒りは……簡単には消えない」
「だからこそ、これ以上の火をつけるべきではない」
パトリックはゆっくり息を吐いた。
「……気持ちはわかる」
「でもな——俺にできるのは、司令部に伝えることだけだ」
「それが通るかどうかは……別問題だ」
「正直に言えば、ほぼ無理だろうな」
BLACKWOLFは黙って聞いていた。
否定も、怒りもない。
ただ——それを理解している顔だった。
「……そうか」
それだけ言った。
その一言が、妙に重かった。
少し間を置いて、今度はパトリックが口を開く。
「ちょっと聞きたいんだが…エルザのことだ」
BLACKWOLFの視線がわずかに動く。
「知ってるか?」
「……いや」
短い否定。
だが続けて、こう言った。
「だが——急がねばならない」
「我らの戦いが終わらねば、彼女は……」
言葉が一瞬途切れる。
「……悪霊に飲み込まれる」
パトリックは眉をひそめた。
「なんだそれは?」
「どういう意味だ」
BLACKWOLFは首を振った。
「説明は難しい」
「だが、感じる」
「彼女の中にあるものが……限界に近い」
パトリックは黙り込んだ。
理解はできない。
だが——あのエルザの戦い方を思い出すと、完全に否定もできなかった。
やがて、BLACKWOLFが問い返す。
「……お前は、我らにどうしてほしい?」
真っ直ぐな問いだった。
パトリックは一瞬だけ迷い——そして、軍人としての答えを選んだ。
「……指示に従ってほしい」
「攻撃をやめて、秩序に従え」
「お前はリーダーなんだろ?」
「なら命令できるはずだ」
その言葉に、BLACKWOLFは静かに首を振った。
「違う」
「私は……ただの戦士だ」
「長ではない」
「長は、別にいる」
パトリックは目を見開いた。
(……そういう構造か)
BLACKWOLFは象徴…それも英雄として…指揮官とかとは違う。
「……厄介だな、それは」
思わず本音が漏れる。
BLACKWOLFは何も答えなかった。
ただ、風が二人の間を通り抜ける。
しばらくして、パトリックが口を開いた。
「明日も……話せるか?」
「もう少し詰めたい」
BLACKWOLFはすぐに頷いた。
「いいだろう」
「ここで待つ」
交渉は終わった。
パトリックは馬に乗り、谷を後にする。
帰り道。
沈黙が続いたあと——パトリックは隣の情報部の兵士にだけ聞こえる声で言った。
「……これでいいのか?」
兵士は肩をすくめる。
「時間は稼げています」
淡々とした答え。
パトリックは小さく笑った。
「だろうな」
「最初から、そのつもりだろ…」
前を向いたまま、低く呟く。
谷の奥に残されたBLACKWOLF。
そして進み続ける“作戦”。
——対話と戦争が、同時に進んでいた。




