第9話 平民の子を見下した日
窓の外は、真っ白な雪がしんしんと降り続いていた。
辺境の冬は、王都の冬とは全く違う。ふんわりとした綿のような雪ではなく、風に舞う氷の粒が窓ガラスをチリチリと叩くような、厳しくて重い雪だ。
今日は、領民の子供たちとの合同授業の日だった。
広い食堂に集まった子供たちの熱気で、部屋の中は少しだけ暖かく感じられる。
「本日の課題は、輸送ルートの選定です」
マグダレーナ先生が、黒板に大きな地図を貼り出した。
辺境伯領の地図だった。中央にお屋敷と備蓄庫があり、そこからいくつか道が分かれて、周囲の村へと繋がっている。
「昨夜から雪が降り続いています。今、備蓄庫から東の『エルム村』へ、小麦を積んだ馬車を急いで向かわせなければなりません。どの道を通るのが最も早く安全か、計算しなさい。制限時間は五分です」
私は、配られた紙の上の数字と地図を睨みつけた。
前回の計算問題では、ミナたちに手も足も出なかった。王都の机の上でしか数字を見てこなかったからだ。でも、今日は違う。
(距離と、馬の速度……)
私はペンを素早く走らせた。
一番太くて平坦な『中央街道』を使えば、距離は十キロメートル。馬車の速度を計算すると、およそ三時間で到着する。他の林道や山を越える道は、どれも距離が遠くて五時間以上かかってしまう。
「できました!」
私は、誰よりも早く手を挙げた。
隣のミナよりも、他のどの子供たちよりも早かった。胸の奥で、誇らしい気持ちがふわりと膨らむ。
「答えなさい、リゼット」
「はい。中央街道を通るのが一番早いです。距離と馬車の速度から計算して、三時間で到着します!」
はっきりと、自信を持って答えた。
計算に間違いはない。私が一番早く、完璧な答えを出したのだ。
しかし、先生はコクリと頷いただけだった。
「計算上はそうですね。……ミナ。あなたの答えは?」
「林道を通って、五時間かけて行きます」
ミナは、手元の紙を見ながら元気な声で言った。
私は驚いてミナを見た。五時間? どう考えても私の答えの方が早いはずだ。
「理由を説明しなさい」
「中央街道は平らだけど、雪が積もって踏み固められると、ツルツルに凍って馬が滑っちゃうから。重い荷車を引いてたら、途中で動けなくなります。林道は少し遠回りだけど、木の根っこや落ち葉があるから、雪が降っても滑りにくい。だから、確実に着くには林道の方が早いです」
「正解です。冬の輸送において、計算上の最短距離が実際の最短時間とは限りません」
先生の言葉に、周りの子供たちが「やっぱり林道だよね」「街道は冬は危ないもん」と頷き合っている。
私の頭の中は、真っ白になった。
雪が凍って滑る。木の根っこがあるから滑らない。
そんなこと、計算式のどこにも書いていなかった。王都の暖かい部屋で育った私には、想像もつかないことだった。
(また、負けた)
せっかく一番早く計算できたのに。
頑張って数字を合わせたのに、またしても平民のミナに、あっさりと負けてしまったのだ。
「さすがミナだなぁ」「計算はあのお嬢様の方が早かったけどね」
そんなヒソヒソ話が耳に入る。
誰も私をバカにしているわけじゃないと分かっているのに、その言葉が鋭い棘のように私の胸に突き刺さった。
公爵家の娘である私が、また、平民の子供に負けた。
お母様の冷たい目や、お姉様たちの嘲笑う声が頭の奥でフラッシュバックする。
『泥にまみれた平民にすら劣るなんて、公爵家の恥です』
悔しかった。恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
その焦りと惨めさが、私の口から、絶対に言ってはいけない言葉を弾き出させてしまった。
「……でも、あなたは作法を知らないじゃない!」
静かな教室に、私の甲高い声が響き渡った。
ハッとして口を押さえたけれど、もう遅かった。
ミナがきょとんとして私を見ている。他の子供たちも、驚いた顔で私に注目していた。
「お、王都のお茶会の席順も知らないし……ドレスの綺麗な裾の持ち方も、知らないでしょ! 私の方が、王都のことなら、ずっとたくさん知ってるわ!」
自分が何を言っているのか、分かっていた。
輸送ルートの答えで勝てなかったから、全く関係のない『身分』と『教養』を引っ張り出して、ミナを見下すことで自分を守ろうとしたのだ。
それは、私が一番嫌いだった、王都のお姉様たちと全く同じやり方だった。
相手を理不尽に見下して、自分が正しいのだと無理やり思い込む、醜いやり方。
「リゼット」
低く、静かな声が降ってきた。
マグダレーナ先生が、教卓から私を真っ直ぐに見据えていた。
これまでで一番、本気の厳しさを含んだ、氷のような瞳だった。
「あなたは今、答えを見ずに、身分を見ましたね」
ビクリと肩が跳ねた。
先生は、赤いインクを使うこともなく、ただ言葉だけで私の心の一番弱い部分を射抜いた。
「計算で勝てなかった。現地を知る知恵で勝てなかった。だからといって、この場に全く関係のない『作法』という盾を持ち出して相手を下げるのは、最も恥ずべき行為です。それは、自分が間違っていると認める勇気がない人間のすることです」
「……っ」
「ミナは、あなたが計算を間違えたことを笑いましたか?」
私は、隣に座るミナを見た。
ミナは、怒ってもいなければ、笑ってもいなかった。ただ、突然怒鳴り出した私を、少しだけ心配そうに見つめているだけだった。
「……笑って、いません」
「そうです。誰もあなたを笑っていない。それなのに、あなたは自分の傲りで、相手を傷つけようとしました」
先生の言葉が、重く、深く胸に刺さる。
私は、ギュッとスカートの裾を握りしめた。
泣いて誤魔化したかった。でも、泣いた理由を説明できない涙は、ここでは許されない。
何より、そんなことをしたら、私は本当に『嫌な公爵家の人間』になってしまう。
私は、唇を強く噛み締めて涙を堪え、椅子から立ち上がった。
そして、ミナの方に真っ直ぐに向き直った。
「ミナ……ごめんなさい」
震える声だったけれど、しっかりと相手の目を見て言った。
「私が、間違ってた。負けたのが悔しくて……関係ないことで、ミナに意地悪を言おうとしたの。本当に、ごめんなさい」
頭を深く下げる。
公爵家の令嬢が平民に頭を下げるなんて、王都なら一大事だ。でも、今の私はただの『間違えた子供』だった。
「いいよ、リゼット。別に気にしてないから」
顔を上げると、ミナはあっけらかんと笑っていた。
「リゼットの計算、すごく早くてびっくりしたよ。雪の日の道のことなんて、こっちに住んでなきゃ分からないもん。気にしないで」
その明るい笑顔に、私は胸の奥がキュッと締め付けられるような気がした。
ミナは、本当に私の身分なんて見ていなかった。ただ、目の前の問題と、私という人間だけを見てくれていたのだ。
「……ありがとうございます、ミナ」
私は小さく息を吐き出して、席に座り直した。
先生を見ると、先生は何も言わずに、ただ一度だけ小さく頷いて、次の地図を黒板に貼り出した。
私は、配られた新しいプリントに目を落としながら、静かに反省していた。
自分が持っている『公爵家の娘』という立場。
それは、お母様の手紙や使者の悪意を見抜くためには必要な知識だったけれど、時にはこんな風に、自分の弱さを隠すための道具にもなってしまう。
身分は盾になる。
でも、目を曇らせることもある。




