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「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の天才たちを黙らせる  作者: 他力本願寺


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第10話 手紙は未来の自分を守る証拠

ミナにひどいことを言ってしまったあの日から、私は少しだけ、周りの景色が違って見えるようになっていた。


自分がいつも正しいわけじゃない。

王都で習った作法も、お父様の冷たい目も、世界のすべてじゃない。

そう気づいてからは、平民の子供たちに計算で負けても、悔しくて泣きそうになるのをぐっとこらえることができるようになった。間違えたら、どうして間違えたのかを考えればいいのだ。


(私、少しだけお姉さんになれた気がする)


冬の青空から差し込む光を浴びながら、私は自室の机に向かっていた。

目の前には、真っ白で上質な便箋と、黒いインク壺が置かれている。

今日、私がやらなければならないことは一つ。お母様から届いた、あの『一通目の手紙』への返事を書くことだった。


あの手紙が、私を心配する親心から書かれたものではなく、私を公爵家の便利な道具としてつなぎ止めるための『所有の宣言』だということは、もう分かっている。


でも、だからといって無視をするわけにはいかない。

公爵家の娘として、手紙をもらったらきちんと返事を書くのが礼儀だ。それに、「私はここで泣いてばかりいる弱い子供じゃありません」と、お母様やお姉様たちに伝えたかった。


私は深呼吸をして、ペン先をインク壺に浸した。


『お母様へ。

お手紙、確かに受け取りました。

こちらは雪が深く、とても寒い日が続いていますが、私は元気に過ごしております』


そこまで書いて、少しだけペンを止めた。

「元気に過ごしている」というのは、本当のことだ。マルタさんの作ってくれるスープは温かいし、辺境伯様が用意してくれた毛皮の靴のおかげで、足先が凍えることもなくなったからだ。


『毎日、マグダレーナ・クロウ先生の元で、しっかりと授業を受けています。

王都とは違うことも多いですが、私はここでたくさんのことを学び、公爵家の娘として恥じないよう、懸命に励んでおります。

どうか、ご安心ください。リゼットより』


書き終えた便箋を、ふうっと息を吹きかけて乾かす。

文字の大きさも揃っているし、誤字や脱字もない。私が今、本当に思っていることを、素直に、そして丁寧な言葉で書けたと思う。


完璧な手紙だ。

これなら、お母様が読んでも「生意気だ」とため息をつかれることもないだろう。


私は、この手紙を封筒に入れる前に、マグダレーナ先生のところへ持って行くことにした。

辺境から王都へ送る手紙は、すべて先生の確認を通すことになっているからだ。


「先生、お母様への手紙の返事を書きました」


お昼休みの教室で、私は教卓に座る先生に便箋を差し出した。

自信があった。計算問題や法典の暗記とは違う。ただの家族への手紙なのだから、間違いなんてあるはずがない。

きっと先生も、一通り目を通して「よろしい」と言ってくれるはずだ。


先生は、無言で便箋を受け取ると、銀縁の眼鏡の奥の目を細めて文字を追った。

静かな教室に、かすかな紙の擦れる音だけが響く。


そして。

先生は、引き出しの中から、あの見慣れた『赤いインクの壺』を取り出した。


(えっ……?)


私が驚いて声を上げる前に、先生の手が動いた。

シャッ、シャッ、と、耳障りな音が響く。


先生の赤いペンは、私が書いた『私は元気に過ごしております』という一文の上に、太く、容赦のない斜線を引いた。

それだけではない。『しっかりと授業を受けています』『懸命に励んでおります』『ご安心ください』……私が心を込めて書いた言葉のほとんどが、真っ赤な線で塗りつぶされていく。


「不合格です」


先生は、真っ赤に汚れた便箋を、パサリと私の前に突き返した。

頭の中が、真っ白になった。


「ど、どうしてですか……!」


私は、思わず教卓に身を乗り出して叫んでしまった。

計算が間違っていたわけじゃない。歴史の年号を間違えたわけでもない。


「私、嘘は書いていません! 本当に毎日元気だし、先生の授業でたくさん学んでいるから、そう書いたんです! ただの家族への手紙なのに、どうして私の気持ちまでバツをつけるんですか!」


初めてだった。

これまでは、自分の答えが否定されると悲しくて泣いていたけれど、今は明確な『反発』の感情がお腹の底から湧き上がっていた。

いくら先生でも、ひどすぎる。私がお母様を安心させようと思って書いた優しい言葉まで、真っ赤なインクで否定されるなんて理不尽だ。


私が顔を真っ赤にして睨みつけても、先生はピクリとも表情を変えなかった。


「気持ち、ですか」


先生は、冷たい声で言った。

そして、赤く引かれた線の下から覗く、私の文字を指差した。


「リゼット。あなたが『元気で過ごし、教育に励んでいる』と書かれたこの紙は、王都に届いた瞬間、ただの『証拠』に変わります」


「……証拠?」


「そうです。あなたが辺境で、何不自由なく、公爵家の指示通りに大人しく教育を受けているという証拠です。もし将来、あなたが実家の意向に逆らおうとした時、彼らはこの手紙を持ち出すでしょう。『この子は辺境での教育に満足し、自ら進んで服従を誓っていた』と」


私は、息を呑んだ。

そんなこと、考えてもみなかった。私はただ、今の自分の状態を教えたかっただけだ。


「……でも、ただの手紙ですよ? そんな、難しい契約書じゃあるまいし……」


「相手が身内であれ、貴族の印が押される文書に『ただの手紙』など存在しません」


先生の声が、一段低くなった。

その瞳の奥には、いつも私を叱る時の厳しさとは違う、得体の知れない暗い炎のようなものが揺らめいていた。


「誰に利用される文か考えなさい」


その言葉の重さに、私は思わず一歩、後ろへ下がってしまった。


「あなたが書いた『ご安心ください』という一言が、あなたを閉じ込める鎖になるのです。この手紙を読んだ者が、それをどう解釈し、誰に見せ、どう利用するのか。そこまで想像できない言葉を、軽々しく外へ出してはいけません」


先生は、新しい真っ白な便箋を一枚、私の前に置いた。


「事実は一つでいい。『手紙は受け取った』。それ以外の一切の感情も、近況も、書いてはなりません」


私は、真っ赤になった最初の手紙と、新しい便箋を交互に見つめた。

腕が、微かに震えていた。


先生の言っていることは、極端すぎるように思えた。

いくらお母様からの手紙が所有の宣言だったとはいえ、私が元気だと書いただけで、そんな恐ろしい鎖になるとは思えない。

家族に手紙を書くことすら、こんなに疑って、言葉を隠さなければならないの?


(先生は、どうしてそこまで怯えているの?)


先生の目は、目の前にいる私ではなく、ずっと遠くにある何か恐ろしいものを見据えているようだった。

赤いインクで塗りつぶされた私の言葉。

それはまるで、先生が必死に、目に見えない大きな罠から私を遠ざけようとしているようにも見えた。


私はその時、先生が何を怖がっているのか、まだ知らなかった。

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