第11話 辺境が帰る場所になる
「本日の授業はここまでです」
マグダレーナ先生のその声を聞いて、私はふうっと長く、白い息を吐き出した。
『誰に利用される文か考えなさい』
手紙の授業で言われたその言葉は、私の頭の奥に重くこびりついていた。
王都の貴族たちの、笑顔の裏に隠された罠。先生が恐れている、目に見えない大きな敵。
教室にいる間中、ずっと背伸びをして冷たい水の中に立っているような、ヒリヒリとした緊張感が続いていた。
けれど、重い木の扉を開けて外に出ると、そんな頭の疲れを吹き飛ばすように、冷たくて澄んだ冬の空気が頬を撫でた。
「あ、リゼット! 一緒に帰ろう!」
屋敷の敷地内にある門の近くで、ミナが私に手を振っていた。
あの日、私が酷い言葉をぶつけて、そして謝ってから、ミナは私を見つけるといつもこうして声をかけてくれるようになっていた。公爵家の令嬢だからではなく、ただの『リゼット』として。
「うん! 今行くわ」
私は、辺境伯様が用意してくれた毛皮のふかふかな靴で、雪を踏みしめながら走り寄った。
ギュッ、ギュッ、と雪の鳴る音が心地いい。
王都にいた頃の私は、お屋敷の庭に出るのすらお付きのメイドと一緒で、少しでも遠くへ行く時は必ず馬車に乗せられていた。自分の足で、こんなに冷たい雪の上を歩くなんて考えたこともなかった。
でも今は、転ばないように足の裏に力を入れて、しっかりと歩くことができる。
「今日は一段と冷えるね。ほら、リゼット、マフラーもっと上まで巻かないと、鼻が凍っちゃうよ」
「ふふ、ありがとう、ミナ。ミナの手、すごく温かいわね」
ミナが私の首元のマフラーを直してくれる。手袋越しでも、その手の温もりが伝わってくるようだった。
私たちは並んで、屋敷へ続く道を歩き始めた。
空はもう薄暗くなりかけていて、雪雲の隙間から星が一つ二つ、顔を出し始めている。
ふと、ミナが道が二股に分かれている場所で、立ち止まった。
片方は、私が帰る辺境伯様のお屋敷へ続く道。もう片方は、領地の奥深く、いくつかの村へと続く山沿いの道だった。
「ねえ、リゼット。あの道、見て」
ミナは、山沿いの道を指差した。
「あの道が、どうかしたの?」
「今はまだ馬車も通れるけどね。あと半月もして本格的な冬が来たら、あの道は通れなくなるんだよ」
「通れなくなる? どうして?」
私が首を傾げると、ミナは当たり前のように答えた。
「雪だよ。この辺りの雪は、王都みたいにすぐには溶けないの。山からの風で雪が吹き溜まりになって、大人の背丈よりも高く積もっちゃうんだ。そうなると、春が来るまで馬車はおろか、人も通れなくなるの」
私は、驚いてミナの顔と道を見比べた。
道が、なくなる?
「じゃあ、あの道の向こうにある村の人たちは、どうやってご飯を食べるの?」
「だから、道が通れなくなる前に、麦とか、冬を越すための食べ物を全部運んでおかなきゃいけないんだ。雪が降る前に運ぶのが、辺境の絶対のルールなの。もし計算を間違えて運ぶのが遅れたら、村が丸ごと飢えちゃうからね」
ミナの言葉に、私はハッとした。
王都で机の上の地図を見ていた時は、「どの道が一番短いか」という数字の計算しかしていなかった。
でも、現実の道は、季節によって姿を変える。数字の上ではそこにあるはずの道が、冬になれば『消えてしまう』のだ。
「……雪の日、この道は通れない」
私は、その景色をしっかりと頭の中に焼き付けるように、小さく呟いた。
先生が言っていた『現地の知恵』とは、こういうことなのだ。計算式の中には絶対に書かれていない、生きた知識。
「さ、寒くなってきたから帰ろ! また明日ね、リゼット!」
「うん、また明日!」
ミナに手を振り返し、私は再びお屋敷へと歩き出した。
冷たい風が強くなってきたけれど、不思議と心細くはなかった。
ふと前を見ると、雪の向こうに、辺境伯様のお屋敷が見えた。
王都の公爵邸のような、高価な魔導石でギラギラと白く照らされた、冷たいお城ではない。黒い石造りの頑丈な壁に切り取られた窓枠から、暖炉の火のオレンジ色の灯りが、ぽつぽつと温かく漏れ出している。
『あそこには、人がいる』
その灯りを見るだけで、なぜだか胸の奥がじんわりと温かくなった。
屋敷に近づくにつれて、風に乗って良い匂いが漂ってきた。
換気口から外へ流れ出している、厨房の匂いだ。
お肉から出た濃厚な脂と、とろとろに煮込まれた玉ねぎや根菜の、甘くてしょっぱい匂い。
私のお腹が、ぐうっと小さく鳴った。
(今日の夕食は、ビーフシチューかもしれない)
そんなことを考えながら、私は屋敷の重い扉を両手で押し開けた。
「……ふわぁ」
中に入った瞬間、暖炉の薪がはぜるパチパチという音と、ポカポカとした空気が私を包み込んだ。
外の厳しい寒さが、まるで嘘みたいだった。
「お戻りになられましたか、リゼット様」
足音を聞きつけて、廊下の奥からマルタさんが小走りでやってきた。
彼女は私の肩に積もった雪を丁寧に払い落とし、冷たくなった上着をそっと受け取ってくれた。
「外は冷えたでしょう。すぐに温かいスープをお出ししますからね」
マルタさんは、目尻に深いシワを寄せて、優しく微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
お帰りなさい。
王都のお屋敷にいた八年間、私は誰かにそんな風に言ってもらったことは一度もなかった。
お父様の書斎に呼ばれても。
お母様のお茶会に顔を出しても。
ラングレー先生の授業の部屋に入っても。
私はいつも「空気を壊す邪魔な存在」として、冷たい目で見られるだけだった。私がそこにいることを、喜んで迎えてくれる人なんて、誰もいなかったのだ。
でも、今は違う。
マルタさんがいて、不器用な辺境伯様がいて、厳しいけれど私を見捨てない先生がいる。
外はあんなに冷たい雪が降っているのに、この屋敷の中は、こんなにも温かい。
「ただい……」
返事をしようと口を開いたけれど、喉の奥が熱く詰まって、声にならなかった。
鼻の奥がツンとして、視界が滲んでしまう。
泣いてはいけないのに、悲しい涙とは違う、温かくてしょっぱい水滴が、ぽろりと頬を伝った。
私は俯いて、マルタさんのエプロンに顔を隠すようにして、小さく何度も頷いた。
ここは、荷物として捨てられた場所。
でも、いつの間にか。
帰る場所が、できてしまった。




