第8話 帳簿は人の嘘を見る道具
お母様の手紙の嘘を見抜いてから、私は少しだけ、背筋を伸ばして教室の椅子に座れるようになっていた。
先生の教えは厳しいけれど、理不尽ではない。
知識の使い方が分かれば、大人の隠し事だって暴くことができるのだ。私の「気づく目」は間違っていない。そう思うと、胸の奥に小さな自信が湧いてくるのを感じた。
「本日の課題は、実地の帳簿確認です」
マグダレーナ先生は、私の机に分厚い革張りのノートを置いた。
「これは、この屋敷の厨房の仕入れ帳です。昨日、村から納品された食材の数と、今日の朝食で消費された数が記されています。あなたはこれから厨房へ行き、実際の在庫の数と、この帳簿の数字にズレがないかを確認してきなさい」
「はい、先生!」
私は元気よく返事をして、帳簿を抱えた。
厨房の確認なら、王都の公爵家でもやったことがある。あの時は、メイドたちが小麦粉や砂糖をごまかして持ち出しているのを私が見つけたのだ。お母様には「余計なことをするな」と怒られてしまったけれど、私の計算自体は完璧だった。
(今度こそ、完璧に矛盾を見つけてみせるわ)
私は意気揚々と、一階の奥にある厨房へと向かった。
お昼前の厨房は、料理人たちが忙しそうに立ち働いていた。
私は隅の方で邪魔にならないようにしながら、棚に置かれた食材の数を一つ一つ数え、帳簿の数字と突き合わせていった。
小麦粉の袋、よし。
塩の壺の重さ、よし。
木箱に入ったじゃがいもの数、よし。
帳簿に書かれた几帳面な文字と、実際の在庫は、きっちりと一致していた。
辺境伯様のお屋敷の使用人たちは、王都のメイドたちのように誤魔化しなんてしないのかもしれない。そう思って、最後に「卵」の項目に目を落とした時だった。
「……あれ?」
私は、帳簿の数字と、目の前にある編みカゴの中の卵を、もう一度数え直した。
帳簿によれば、昨日の夕方に村から届けられた卵は五十個。
今日の朝食のオムレツやスープで使われた記録が、三十個。
ということは、カゴに残っている卵は二十個のはずだ。
「いーち、にー、さーん……十五。……やっぱり、足りない」
カゴの中には、十五個しか卵がなかった。
どうしても、五つだけ数字が合わない。床に割れた跡もないし、別の場所に保管されている様子もなかった。
(嘘だわ。誰かが、数字をごまかしている)
私の胸が高鳴った。
見つけた。大人の嘘だ。誰かがこっそり卵を盗んで、帳簿に嘘を書いているんだ。
これを先生に報告すれば、きっと「よく見つけましたね」と、私の正確な目を認めてくれるはずだ。
私は急いで厨房を出て、教室へと走った。
「先生! 見つけました!」
教卓で本を読んでいた先生に、私は息を弾ませながら帳簿を突き出した。
「卵の数が合いません! 仕入れの数と使った数を引くと二十個残るはずなのに、十五個しかありません。誰かが嘘をついて、五つ盗んだ泥棒がいます!」
完璧な報告だと思った。
けれど、先生は私を褒めなかった。赤いインクを取り出すこともしなかった。
ただ、静かに立ち上がり、私を見下ろした。
「泥棒、ですか」
「はい! 数字は嘘をつきませんから!」
「……ついてきなさい、リゼット」
先生は帳簿を手に取ると、教室を出て、屋敷の裏側へと向かって歩き出した。
私は不思議に思いながら、その後を追いかけた。
先生が立ち止まったのは、厨房の勝手口につながる、裏庭の木陰だった。
「静かに」と口に人差し指を当てられ、私は先生の横から、そっと勝手口の様子を窺った。
木箱の上に、屋敷の老侍女であるマルタさんが腰掛けていた。
そしてその目の前には、ボロボロの薄い服を着た、私と同じくらいの年の男の子が立っていた。頬はこけ、寒さのせいか、ひどく痩せた肩を震わせている。村から来た孤児の子供のようだった。
マルタさんは、布に包んだ小さなバスケットを、その子の両手にそっと握らせた。
「今日は、お肉の切れ端と、卵が五つ。割れないように、気をつけて持ってお帰り」
「ありがとう、マルタおばあちゃん……弟が、ずっと熱を出していて……これがあれば、栄養のあるスープが作れるよ」
「旦那様には内緒だよ。さあ、早くお行き」
男の子は何度も頭を下げて、大事そうにバスケットを抱えて裏門の方へ走っていった。
マルタさんはその小さな背中が見えなくなるまで、優しい目を細めて見送っていた。
私は、木陰に隠れたまま、息を止めていた。
(卵が五つ……)
泥棒じゃなかった。
マルタさんが、病気の弟がいるあの子のために、こっそりと分けてあげていたのだ。
帳簿上はきっと「割れて使い物にならなくなった」とでもして、ここの厳しい環境を生き抜くための、小さな助け合いをしていたんだ。
もし、私が先ほどの大声で、辺境伯様の前で「卵を盗んだ泥棒がいます!」と報告していたらどうなっていただろう。
嘘が暴かれ、マルタさんは叱られ、あの痩せた男の子は、温かいスープを飲むことができなくなっていたはずだ。
私の見つけた「正しさ」は、あの優しいマルタさんと、小さな子供を、冷たく切り捨てるための刃になるところだったのだ。
「……数字は嘘を見つけます」
頭上から、先生の静かな声が降ってきた。
「けれど、嘘がすべて悪とは限りません」
私は、ギュッと唇を噛み締めた。
お母様の手紙の嘘を見抜けたからといって、私は自分が世界で一番賢くなったように錯覚していたのだ。数字のズレを見つけただけで、その奥にある『人の事情』を想像しようともしなかった。
王都で、ただ暗記しただけの言葉を自慢げに話していた頃と、何も変わっていない。
「ごめんなさい……私、何も見えていませんでした……」
ぽろり、と。
また、情けない涙がこぼれ落ちた。
自分の傲慢さが恥ずかしくて、私は両手で顔を覆った。
先生は、泣いている私を慰めはしなかった。ただ、私が泣き止むまで、静かに木陰に立って待っていてくれた。
教室に戻ると、先生は次の筆写の課題を私の机に置いた。
私は袖で涙を拭い、ペンを握ろうとして、ふと気づいた。
机に置かれた新しい答案用紙は、昨日まで使っていたツルツルした羊皮紙とは違っていた。
少し厚みがあって、表面がザラザラとした、手触りの柔らかい紙。
ポツリと、私の目からこぼれた涙の雫が、その紙の上に落ちた。
いつもなら、涙が落ちたところからインクがぶわりと滲んで、書いた文字が汚くなってしまう。
でも、この新しい紙は、涙の水分をゆっくりと吸い込み、インクの線をまったく滲ませなかった。
先生が、替えてくれたのだ。
私が泣いても、インクが滲みにくい紙に。
私は、滲まなかった紙の上をそっと指でなぞり、深く息を吸い込んでペンを走らせた。
矛盾を見つけるだけでは、人を傷つけることもある。




