第6話 礼法は武器
辺境の冬は、王都よりもずっと早くやってくる。
窓の外で白い雪がちらつき始めたある日、お屋敷に王都からの使者がやってきた。領地の税や、冬の備蓄に関する書類を届けるための、下級貴族の役人だという。
「公爵家のご息女が滞在されていると伺いましたので、ご挨拶を」
使者の申し出により、私は辺境伯様との面会のお部屋に呼ばれた。
王都の人に会うのは、あの日馬車で一人置いていかれて以来だった。お腹の奥が少しだけ冷たくなったけれど、私はマルタさんが整えてくれた濃紺のワンピースの裾を握り、静かに部屋へ入った。
「これはこれは。辺境の寒さにも負けず、お元気そうで何よりです」
立派な口髭を生やした使者の男の人は、私を見ると、目を細めてにっこりと笑った。
「さあさあ、リゼット様。どうぞこちらへ」
使者は、大げさな手振りで一つの椅子を示した。
それは、大きな机の端、出入り口の扉に一番近い場所にある、背もたれのない小さな椅子だった。暖炉の火からは一番遠く、廊下からの隙間風が足元をスースーと通り抜ける場所だ。
「あ……」
私は一瞬、足を止めた。
王都のお屋敷で、私があんな末席に座らされたことは一度もなかった。そこは、お父様に叱られるために呼ばれた使用人が座るような場所だったからだ。
でも、使者の人はとても優しそうな笑顔を浮かべて、私を待っている。
「どうなさいました? 辺境の暮らしで、礼儀をお忘れになったわけではありませんよね」
冗談めかしたその言葉に、私はハッとして唇を噛んだ。
ここで私が「嫌だ」と言えば、また空気を壊してしまう。「だから公爵家の恥なのだ」と笑われてしまう。
私は何も言えず、小さくお辞儀をして、隙間風の吹くその椅子にちょこんと座った。
すぐに、温かいお茶が運ばれてきた。
辺境伯様や使者の前にはスッと置かれたのに、私の前のお茶だけは、机のずっと奥の方、私の短い腕ではどうやっても届かない位置に置かれていた。
使者は、それに気づかないふりをして、辺境伯様と書類の話を始めた。
私は、冷たい風に足を震わせながら、届かないお茶から立ち上る湯気をただじっと見つめていた。
膝の上で、ドレスの布をきつく握りしめる。
悔しかった。馬鹿にされているのは分かる。でも、相手は笑顔で、丁寧な言葉を使っているから、どこが間違っているのかを指摘できない。
「どうしてこんな所に座らせるの」と怒りたかったけれど、喉の奥が詰まって、声は出なかった。
やがて話が終わり、使者が機嫌よく部屋を出て行った。
重い扉が閉まった途端、部屋の隅の影から、静かな足音が近づいてきた。
「リゼット。なぜ、そんなにドレスを強く握っているのですか」
マグダレーナ先生だった。
黒いドレスを揺らし、冷たい眼鏡の奥から私を見下ろしている。
「……先生。私、なんだか、とても馬鹿にされた気がします」
私は、震える声で正直に言った。
「気がする、ではありません。あなたは今、はっきりと踏みにじられました」
先生は、私が座っている小さな椅子と、届かないお茶を指差した。
「王都の『公爵令嬢』に対する正式な呼称は何ですか」
「えっと……『オルブライト公爵家令嬢、リゼット様』、です」
「あの男は、ただ『リゼット様』とだけ呼びました。つまり、あなたにはもう公爵家の後ろ盾がないと、言葉で示したのです。そして、この席順。扉に最も近く、暖炉から遠いこの末席は、身分が一番下の者が座る場所です。お茶の位置も、あなたが手を伸ばして無様な姿を晒すのを待っていたのでしょう」
先生の言葉を聞いて、私の顔はカッと熱くなった。
やっぱり、気のせいじゃなかった。あの笑顔の裏で、私を「いらない子供」だと笑っていたのだ。
「私……王都で、お辞儀の角度も、歩き方も、全部完璧に覚えたのに。何も言い返せませんでした」
「当然です。あなたが王都で学んだ礼法は、『お人形のように可愛らしく微笑むため』の形だけだからです」
先生は、私が届かなかったティーカップを手に取り、私のすぐ目の前にそっと置き直した。
カチャリ、と磁器の鳴る音が、静かな部屋に響く。
「いいですか、リゼット。礼法とは、きれいに座るためにあるのではありません。相手が自分をどの位置に置こうとしているのか、その『立ち位置』を正確に測るための定規です。定規を持っていれば、相手が線を越えて踏み込んできた時、すぐに気づくことができる」
先生の目が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「次に同じことが起きたら、微笑んだまま言いなさい。『公爵家の血を引く私に、その席を勧める理由を説明してください』と。相手の無礼を、言葉にして突き返すのです」
私は、目の前に置かれた温かいお茶のカップを、両手でしっかりと包み込んだ。
手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる。
言い返していいんだ。空気を壊すことを怖がって、黙って笑っている必要なんてなかったんだ。
先生が教えてくれる知識は、私を守るための武器になる。私は、そのことをはっきりと理解した。
その夜。
部屋で休んでいる私のところに、マルタさんが夕食のトレイを運んできてくれた。
「リゼット様。本日のシチューは、お肉を多めにしております」
お皿を見ると、いつもより大きく切られたお肉がゴロゴロと入っていて、湯気がふわりと立ち上っていた。
そしてマルタさんは、トレイの横に、見慣れない茶色い靴をコトリと置いた。
「それは……?」
「旦那様からの、お言いつけでございます。昼間、冷たい風の吹く扉の近くで、足先が冷えてしまっただろうからと」
私は、驚いて目を丸くした。
辺境伯様は、面会の間中、ずっと難しい顔で書類を見ていて、私には一言も声をかけなかった。使者が帰った後も、無言のまま部屋を出て行ってしまったのに。
靴に触れてみると、中にはふかふかの動物の毛皮が敷き詰められていて、とても温かそうだった。
王都で履いていた、細くて綺麗なだけの絹の靴とは違う。辺境の雪道でも絶対に滑らない、丈夫で、私を守ってくれる靴。
「……ありがとうございます、って、辺境伯様にお伝えして」
「はい。承知いたしました」
私は、温かいシチューを口に運びながら、昼間の使者の顔を思い出した。
もう、怖くない。
王都の人が私を見下そうとしても、私には、それに気づいて跳ね返すための武器がある。
礼法は、きれいに座るためではなく、踏まれていることに気づくためのものだった。




