第5話 間違えても笑われない教室
靴の裏から伝わる木の感触は、とてもしっかりしていた。
先生が用意してくれた小さな踏み台。
それに乗って黒板に向かうと、腕を無理に伸ばさなくても、チョークがスラスラと動いた。
私が書いた字は、やっぱり大きさがバラバラで、右に少し傾いている。
でも、先生は今日も「汚い」とは言わなかった。ただ、私が書いた答えの、間違っている部分にだけ赤い線を引いた。
(完璧じゃなくても、怒られないんだ)
少しだけ、息がしやすくなった気がした。
間違えたら、やり直せばいい。先生は怖いけれど、私をいきなり暗い部屋に閉じ込めたり、馬車に乗せて追い出したりはしない。
その事実が、凍りついていた私の心をほんの少しだけ溶かしてくれていた。
午後からは、いつもと違う部屋での授業だった。
食堂の隣にある広い部屋には、私と同じくらいの年の子供たちが十人ほど集まっていた。
みんな、王都では見たこともないような、厚手の手織りの服を着て、少し日に焼けている。辺境伯領に住む、平民の子供たちだった。
「今日は実務の計算です。全員、前の紙を取りなさい」
先生の言葉で、一斉に紙が配られた。
そこには、荷馬車に積む麦の袋の数や、冬を越すための薪の束の計算問題が書かれていた。
私はペンを握り、一つ目の問題を見た。
『一束が八本の薪。それが十二束。全部で何本か』
私は頭の中で、王都で習った筆算の形を思い浮かべた。
八と十二を掛ける。二と八で十六、一と八で……と、順序立てて計算を始めようとした、その時だった。
「九十六本!」
私の隣に座っていた、赤毛の短い髪の女の子が、元気な声で言った。
先生が配り終えてから、ほんの数秒しか経っていない。
「正解です、ミナ。次」
先生は驚きもせず、淡々と次の問題を読み上げた。
ミナと呼ばれた女の子は、得意げに笑ってペンを置いている。
私は、ポカンと口を開けてしまった。
早すぎる。どうやって計算したの?
次の問題も、また次の問題も、私が頭の中で筆算の数字を並べている間に、ミナや他の子供たちが次々と答えを口にしていく。
私は、一問も答えることができなかった。
顔が、カッと熱くなった。
公爵家の娘である私が、平民の子供たちに計算で負けたのだ。
お姉様たちが見ていたら、きっと扇で口元を隠してクスクスと笑うだろう。お母様なら、「泥にまみれた平民にすら劣るなんて、公爵家の恥です」と私を冷たく睨みつけるはずだ。
「……私は、ダメだわ」
ペンを握る手が震える。
やっぱり私は、ここでも出来の悪い子供なんだ。
俯いて、膝の上に涙が落ちるのを我慢していると、コツン、と先生の指が私の机を叩いた。
「リゼット。何をしているのですか」
「……ごめんなさい。私、計算が遅くて……恥ずかしいです」
消え入るような声で謝った。
笑われる。呆れられる。
そう思って目をぎゅっと瞑ったけれど、聞こえてきたのは静かな先生の声だった。
「負けたことではなく、負けた理由を見ないことを恥じなさい」
ハッとして顔を上げる。
先生は、ミナの机の上にある紙を指差した。
「ミナは、頭の中で数字を並べてはいません。彼女は毎日、お使いで薪の束を見ています。だから『八本の束が十個で八十、あと二つで十六』と、物の塊として数えているのです。王都の机の上でしか数字を見てこなかったあなたが、遅れるのは当然です」
「物の、塊……」
「紙の上の数字と、現実の物は違います。それが分かったのなら、泣く暇はありませんね。次の問題を読みなさい」
先生の目は、私を「出来の悪い子」として見下してはいなかった。
ただ、足りないものを教えてくれただけだ。
隣を見ると、ミナも私を馬鹿にするような目はしていなかった。「王都のお嬢様は、薪を見たことがないのね」と、ただ不思議そうにしているだけだ。
誰も、私を笑っていない。
できないことを、生まれつきの欠陥のように嘲笑う人は、この教室には一人もいなかった。
私は、ギュッとペンを握り直した。
逃げたくない。ここでなら、私は間違えても、やり直せる。
「次は、領地の税の計算です。資料の三ページを開きなさい」
私は、もらった資料に目を落とした。
ある村の、秋の収穫と税の記録についての文章題だった。
私は、先ほどの悔しさをバネにして、文字を一つ一つ必死に目で追った。
村の世帯数。一世帯あたりの麦の納付量。そして、領主の蔵に納められたとされる総量。
読んでいくうちに、頭の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
王都の厨房の帳簿を見た時と同じ感覚。
「あ……」
声が漏れた。
私は、恐る恐る手を挙げた。
「どうしました、リゼット」
「あの……どこが違うのかは、まだ分からないのですが……この数字だけ、変です」
教室中が、静かになった。
平民の子供たちが、一斉に私を見る。
「空気を壊した」という恐怖が背中を走ったけれど、私は資料の紙を強く握りしめ、自分の言葉を続けた。
「村の家は、全部で五十軒と書いてあります。一軒につき銀貨二枚分の麦を納めるとすると、全部で銀貨百枚分になるはずです」
私は、震える指で資料の最後の一行を指差した。
「でも、ここには『合計で百二十枚分が納められた』と書いてあります。二十枚分、どこから来たのかが、どこにも書いてありません」
静寂の中。
教卓で私の答えを待っていた先生の手が、ピタリと止まった。
いつもなら、すぐに赤いインクの斜線が飛んでくるはずだ。
けれど、先生はペンを持ったまま、微かに目を見張って私を見ていた。
赤いインクは、落ちてこなかった。
「……気づきましたか。その通りです。この資料には、二十枚分の不自然な余剰があります」
先生は静かにそう言って、黒板に向き直った。
その背中が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えたのは、私の気のせいだっただろうか。
私は、小さく息を吐き出して、自分のノートにペンを走らせた。
間違えても笑われない。
問いを見つければ、ちゃんと聞いてくれる。
この小さな辺境の教室が、私は少しだけ好きになり始めていた。
この時の私は、まだ知らなかった。
この教室で鍛えられた私の『矛盾を見抜く目』が。
王都で秀才と呼ばれる人たちの完璧な答えを、いつか完全に黙り込ませる武器になるということを。




