第4話 先生は褒めなかった
「不合格です。最初からやり直しなさい」
先生のその言葉から、私の本当の『授業』が始まった。
「泣いた理由を説明する」。簡単なことだと思った。私は新しい羊皮紙を引き寄せ、震える手でペンを握った。
『先生に、答えが違うと言われて、悲しかったからです』
書き上げて提出すると、先生は一瞥しただけで、赤いインクで斜線を引いた。
「嘘ですね。あなたは自分の暗記が完璧だと知っていた。だから『違う』と言われた悲しみより前に、別の感情があったはずです」
心の中を見透かされたようで、私はビクッと肩を震わせた。
別の感情。どうして怒るの。どうして認めてくれないの。
私はもう一度、ペンを取った。
『完璧に覚えたのに、どうして認めてくれないのかと、理不尽に思いました』
「……不合格です」
また、赤いインクが引かれる。
容赦のない音が、静かな教室に響く。
「理不尽に思ったのなら、怒ればいい。反論すればいい。ですがあなたは泣き崩れ、怯えました。あなたが本当に恐れたものは何ですか」
恐れたもの。
頭の中に、冷たい王都のお屋敷の光景が蘇る。
「そういうところよ」とため息をつくお母様。
「教育不能」と切り捨てた家庭教師。
「辺境へ預けろ」と、私を見ずに言い放ったお父様。
私は、泣きながら羊皮紙に向かった。涙で文字が滲んで、とても王都の令嬢とは思えないような、汚い字になった。
こんなことを書いたら、きっと「面倒な子供だ」と呆れられる。今度こそ、本当にどこかへ捨てられてしまうかもしれない。
でも、先生は本当のことしか許してくれない。
『私は、完璧にできませんでした。完璧にできないと、またいらない子として、ここからも捨てられると思ったからです』
書き終えた羊皮紙を、両手で差し出す。
先生はそれを受け取ると、じっと文字を見つめた。
怒られる。笑われる。「公爵家の娘が、みっともない被害妄想だ」と。
けれど、先生は今度は赤いインクを使わなかった。
「……よろしい」
ただ一言、そう言って、その羊皮紙を束の一番下にしまった。
褒めてはくれなかった。「そんなことはない、捨てたりしない」と慰めてもくれなかった。ただ、私の醜い本当の言葉を、そのまま受け取っただけだった。
それから夜まで、法典の読み直しと、その条文が「誰のどんな権利を守るために書かれたのか」を抜き出す作業が続いた。
これまでの暗記とは違う。言葉の意味を一つ一つ考え、それがどんな時に「武器」や「盾」になるのかを想像する。頭の芯がじんじんと熱くなるような作業だった。
「前に出なさい。黒板に、今見つけた第七条の解釈を書き出しなさい」
窓の外はすっかり暗くなり、魔導灯の青白い光が教室を照らしている時間だった。
私は椅子から降りて、前方の大きな黒板の前に立った。
チョークを渡され、言われた通りに答えを書こうとした。けれど。
(……とどかない)
私の背丈では、黒板の半分より下にしか手が届かない。そこでは下すぎて、先生の教卓からは見えづらいはずだ。
王都の遊戯室にあった黒板は、子供用に低く作られていた。でも、ここの黒板は大人が使うための本物だ。
背伸びをして、腕を思い切り上に伸ばす。
ふくらはぎがプルプルと震え、チョークを持つ指先に力が入らない。
「カツッ、キーッ」と、チョークが嫌な音を立てる。
文字が歪む。大きさがバラバラになる。王都のラングレー先生なら、絶対に許さないような不格好な文字だ。
「遅い」「見苦しい」「もっと綺麗に書きなさい」
いつ後ろからそんな声が飛んでくるかと、私はビクビクしながら背伸びを続けた。
腕が痛い。足が疲れた。でも、休んだら怒られる。完璧にやらなければ。
必死に書き終えて振り返ると、先生は私の書いたガタガタの文字を、無言で見つめていた。
ダメだ。ため息をつかれる。
「……席に戻りなさい。今日の授業はここまでです」
先生は、私の文字の汚さも、書くのが遅かったことも、何も言わなかった。
ただ、答えの内容だけを自分の手元のノートに書き留めて、教室を出て行った。
夕食のスープは温かくて美味しかったけれど、私の心はずっと冷たいままだった。
ベッドに入って、分厚い毛布に包まれても、不安で眠りにつくことができない。
(また、嫌われちゃった)
今日一日、先生は一度も笑わなかった。
私が本当の理由を書いた時も、必死に答えを出した時も、背伸びをして不格好な文字を書いた時も。
ただ冷たい目で、私を値踏みしているようだった。
『どうして普通に笑えないの』
お母様の言葉が、耳の奥で蘇る。
あの公爵家では、上手に笑えなくて嫌われた。
ここでは、上手に答えを書けなくて嫌われるんだ。
私は毛布を頭から被り、声を殺して泣いた。どこに行っても、私はダメな子供だ。
翌朝。
足取りは鉛のように重かった。
廊下を歩く間も、お腹の底が冷たくてギュッと縮こまっている。
また怒られる。また、赤いインクで私の全部をバツにされる。
教室の扉の前に立ち、深呼吸をしてから、重い木の扉を押し開けた。
「おはようございます、リゼット」
先生は、昨日と全く同じ姿で、教卓の前に立っていた。
表情は硬く、氷のような目は少しも優しくない。
「おはようございます、先生」
私は俯き加減のまま、自分の席へと歩き出した。
今日もまた、あの高い黒板に向かって、痛い腕を伸ばして震えながら字を書くのだ。
そう思いながら前を見た時、私はピタリと足を止めた。
黒板の前。
昨日、私が背伸びをして、プルプルと震えながら立っていたまさにその場所に。
木でできた、小さな踏み台が置かれていた。
装飾なんて何もない、本当にただの木の箱だ。
でも、角は怪我をしないように丁寧に丸く削られていて、私が乗っても絶対にグラグラしないくらい、どっしりとしていた。
私は、その踏み台と、先生の顔を交互に見た。
マルタさんが掃除の時に置き忘れたわけじゃない。昨日、私が部屋を出る時には、あんなものはなかった。
先生が、用意してくれたのだ。
私が背伸びをして、苦しそうに文字を書いていたのを、先生はずっと見ていた。
「遅い」とも「見苦しい」とも言わず、ただ、私には何が足りないのかを黙って見ていたのだ。
先生は、まだ何も言わない。
昨日と同じように、冷たい顔で私を見下ろしている。
先生は褒めなかった。
でも黒板の前には、小さな踏み台があった。




