第3話 泣いた理由を説明しなさい
辺境伯のお屋敷で迎えた最初の朝は、不思議なくらい静かだった。
王都の屋敷でいつも聞こえていた、馬車の車輪の音や、使用人たちが慌ただしく廊下を行き交う足音が全くしない。
ベッドのマットレスは王都のものより少し硬かったけれど、分厚い毛布のおかげで、足の先までぽかぽかと暖かかった。
「おはようございます、リゼット様。お着替えをご用意いたしました」
ノックの音とともに部屋に入ってきたマルタさんが、椅子の上に衣服を置いた。
私が今まで着ていたような、絹のフリルや繊細なレースがふんだんにあしらわれたドレスではない。装飾の全くない、厚手で丈夫そうな濃紺のワンピースだった。
「あの、私のドレスは……」
「ここより北には、貴族の社交場はございません。お勉強の邪魔にならない、こちらの服をお召しください」
マルタさんの手つきは手際よく、あっという間に私の着替えは終わってしまった。
鏡に映った自分を見て、少しだけ不安になる。
こんな地味な格好で、きちんとした令嬢に見えるだろうか。お母様が見たら、きっと「みすぼらしい」と眉をひそめるに違いない。
でも、今はそんなことを気にしている場合ではない。
お父様に捨てられた私は、ここで上手くやっていくしかないのだ。
いい子にして、言うことを聞いて、決して大人を怒らせてはいけない。
王都での失敗を繰り返さないように、深く息を吸い込んで、私はマルタさんの後に続いた。
案内された「教室」は、屋敷の一階の奥にあった。
王都のラングレー先生の授業を受けていた日当たりの良い遊戯室とは違い、そこは石の壁に囲まれた、少し薄暗くてひんやりとした部屋だった。
部屋の前方には大きな黒板があり、真ん中には飾り気のない木製の机と椅子が一つだけポツンと置かれている。
机の前には、昨夜の黒衣の女の人が立っていた。
マグダレーナ・クロウ先生。
一切の隙なく結い上げられた黒髪と、冷たい銀縁の眼鏡。彼女がそこに立っているだけで、部屋の空気がピンと張り詰めているように感じる。
「おはようございます、リゼット。席につきなさい」
「……おはようございます、先生」
私はスカートの裾を少しだけ持ち上げ、王都で習った通り、一番綺麗に見える角度で小さくお辞儀をしてから席についた。
机の上には、真新しい羊皮紙と、インク壺、それに一本の羽ペンが置かれていた。
「最初の授業を始めます。筆記の用意を」
先生は教卓から私を見下ろし、淡々とした声で言った。
「『旧王国法典』の第三章、第七条から第十条まで。貴族の婚姻と財産分与に関する条文です。今から私が読み上げるわけではありません。あなたの記憶にある通りに、書き写しなさい」
私は、心の中で小さく息を吐いた。
暗記なら得意だ。王都のラングレー先生の授業でも、法典の暗唱は何度もやった。
私は筆を取り、インク壺にペン先を浸した。
さらさらと、静かな部屋にペンが紙を擦る音だけが響く。
間違えないように。文字の大きさや並びが美しくなるように。
私は自分の頭の中にある本のページをめくりながら、一字一句、正確に条文を書き記していった。
『第七条。婚姻に際して持ち込まれた財産は、原則として……』
大丈夫。ちゃんと書けている。
私は、お姉様たちのように可愛らしく笑うことはできなかったけれど、本を読むことと、それを覚えることだけは誰にも負けなかったのだ。
ここで完璧な答えを出せば、きっと先生も認めてくれる。
「よくできました」と、少しは優しい顔をしてくれるかもしれない。
書き終わる頃には、私の胸の中には小さな自信が膨らんでいた。
はねやはらいの形まで気を配った、我ながらとても綺麗な答案だった。
「書き終わりました」
ペンを置き、両手を膝の上で綺麗に揃えて待つ。
先生は無言のまま歩み寄り、私の机の上から羊皮紙を取り上げた。
銀縁の眼鏡の奥の瞳が、私が書いた文字の上を滑っていく。
ドキドキと胸が鳴った。褒められる。きっと、褒められる。
しかし、先生の表情はピクリとも動かなかった。
彼女は自分の教卓に戻ると、黒いペンではなく、赤いインクが入った壺から別のペンを取り出した。
スッ。
シャッ、シャッ。
耳障りな音が響いた。
先生の持つ赤インクのペンが、私が書いた綺麗な文字の上を、容赦なく横切っていく音だった。
ためらいのない、太くて赤い斜線。
私の完璧な答案が、真っ赤に汚されていく。
「え……?」
思わず声が漏れた。
先生は、赤い線だらけになった羊皮紙を、私の机の上にパサリと落とした。
「不合格です」
頭の中が、真っ白になった。
「な、なぜですか……? 私、間違えていません。本に書いてある通りに、一字も間違えずに書きました。文字も、綺麗に書いたはずです!」
椅子から立ち上がりそうになるのを必死に堪えながら、私は声を絞り出した。
分からない。どうして。お父様の時と同じだ。正しいことをしたのに、どうして否定されるの。
「文字は合っています。正確な暗記力です」
先生は冷たい声で答えた。
「では、リゼット。あなたが将来、どこかの貴族に嫁いだとします。そして、あなたの夫となった男が、あなたの持参金や、あなた自身に与えられた土地を、勝手に売り払おうとしたとしましょう。……さて、今あなたが書いたこの美しい条文の、どの部分が、あなたを守る盾になりますか?」
「え……」
「第七条から第十条の中で、夫の独断を無効にし、あなたの財産を法的に保護する一文はどこですか。説明しなさい」
息が詰まった。
答えられない。
そんなこと、考えたこともなかった。私はただ、ラングレー先生が「覚えなさい」と言ったから、声に出して美しく読めるように、間違えずに書けるように暗記しただけだ。
この文字が、何のためにあるのか。どうやって使うのか。
そんなこと、誰も教えてくれなかった。
「言葉の羅列を覚えるだけなら、オウムにもできます。あなたがしたことは、ただの綺麗な模様を描いたのと同じです」
先生の言葉が、鋭いナイフのように胸に突き刺さる。
模様。私が一生懸命覚えたものは、ただの模様だと言われた。
「その知識を、いつ、何から自分を守るために使うのか。それが分からないのなら、こんなものは何の役にも立ちません」
ギュッと、膝の上のドレスを握りしめた。
目の前が滲んできた。
ダメだ。泣いてはいけない。お母様にいつも言われていた。「泣いて人を困らせるなんて、みっともない真似は許しません」と。
空気を壊してはいけない。我慢しなさい、リゼット。
でも、止まらなかった。
お父様に捨てられた時の恐怖。寒い馬車の中での心細さ。
そして今、唯一自信があったものまで、真っ赤なインクで否定されてしまった。
私は何をやってもダメなんだ。どこに行っても、私は間違っているんだ。
ポロリと、大粒の涙が頬を伝って、真っ赤に染まった答案用紙の上に落ちた。
インクが滲む。視界がぼやける。
ヒッ、としゃくりあげる声が漏れてしまった。
怒られる。きっと「面倒な子供だ」とため息をつかれて、呆れられる。
私は身をすくめ、先生の怒声が降ってくるのを待った。
けれど。
「……泣いた理由を説明しなさい」
降ってきたのは、怒りの声ではなく、氷のように静かで、平坦な問いかけだった。
ハッとして顔を上げる。
先生は、泣いている私を見ても、ため息をついていなかった。
呆れた顔も、蔑むような目もしていなかった。ただ、じっと私を見据えて、私の言葉を待っていた。
「正解を言える子供は多い。けれど、正解を使って自分を守れる子供は少ない」
先生は、赤いインクで汚れた答案を指差した。
「不合格です。最初からやり直しなさい」




