第2話 荷物ではなく客人
北へ向かう馬車の旅は、日を追うごとに冷たくなっていった。
窓の外の景色から鮮やかな緑が消え、灰色と白の世界に変わっていく。
隙間から入り込む冷たい風に、私は薄い外套をきつく握りしめた。
「まったく、こんな時期に北の果てまで行かされるとは。私まで辺境送りにされた気分だ」
向かいの席に座る公爵家の使者が、忌々しそうに舌打ちをした。
私が寒さで小さく肩を震わせても、使者は自分の膝に厚い毛布を何枚も重ねるだけで、私には見向きもしない。
道中、食事が喉を通らなかった時も「わがままを言うな」と怒鳴られたきりだ。
お父様にとって、私はもう娘ではない。
そしてこの使者にとって、私はただ指定された場所に運べばいいだけの、厄介な『荷物』でしかないのだ。
馬車に揺られること十数日。
ようやく車輪が止まった時、私の手足は氷のように冷たくなり、指先の感覚はほとんどなくなっていた。
「降りなさい。着きましたよ」
使者に急かされるようにして外に出ると、冷たい風が頬を打った。
目の前にそびえ立っていたのは、王都にあるような白亜の美しい館ではない。飾り気のない、無骨で頑丈そうな黒い石造りの砦のような屋敷だった。
「ごきげんよう、レーヴェン辺境伯閣下。オルブライト公爵家より、五女リゼット様をお連れいたしました」
使者が愛想よく声をかけた先には、大きな黒い熊のような男の人が立っていた。
背が高く、肩幅が広い。髪も目も、深い夜の森のように暗い色をしている。
顔には大きな傷跡はなかったけれど、その鋭い眼差しに見下ろされ、私は思わず使者の後ろに隠れそうになった。
怖い。お父様とは違う種類の、本物の大きな獣の前に立たされているような怖さだった。
「……ギデオン・レーヴェンだ」
低い、地鳴りのような声だった。
辺境伯様は私を一瞥しただけで、すぐに使者へと向き直った。
「閣下からの書状をお持ちしました。こちらが、『教育委託状』でございます」
使者が恭しく差し出した羊皮紙の筒を、辺境伯様は片手で受け取った。
赤い封蝋が割られ、中身が検分される。
その紙に何が書かれているのか、私には分からない。けれど、私がもう公爵家にはいらないという証明書であることは、子供でも分かった。
「……確かに受け取った。手続きはこれで終わりだ」
「はっ。それでは、私はこれで失礼いたします。いやはや、いくら公爵家のご息女とはいえ、頭に難のある子供を押し付けられては、辺境伯閣下もさぞご苦労されることでしょう。何卒、この『荷物』のことは適当に扱っていただき――」
「おい」
辺境伯様の声が、一段低くなった。
ピタリと、使者の愛想笑いが止まる。
「荷物?」
「い、いえ、その……お預かりいただく上で、お手を煩わせる不良品と言いますか……」
「言葉を慎め、王都の使い鳥」
辺境伯様が、使者を冷たく見下ろした。
怒鳴り声ではない。けれど、その静かな言葉には、氷の刃を首筋に突きつけられたような凄みがあった。使者がヒッと短く息を呑む音が聞こえた。
「この子は荷物ではない。客人だ」
はっきりと、そう言った。
「我が領地は、雪崩の危険もある厳しい土地だ。だが、身を寄せた客人を荷物扱いするほど、人の心まで凍ってはいない。……王都への帰路は長い。お前は早々に発つがいい」
追い払うように顎をしゃくられ、使者は顔を真っ青にして逃げるように馬車へ乗り込んだ。
車輪の音が遠ざかっていく。
私を王都へ繋いでいた最後の糸が、ぷつりと切れた音がした。
「……おい」
不意に呼ばれて、私はビクッと肩を跳ねさせた。
辺境伯様が、私を見下ろしている。怒られる、と思った。使者を追い返してしまったのだから、今度は私が叱られる番だ。
「長旅で冷えただろう。マルタ」
「はい、旦那様」
辺境伯様が呼ぶと、いつの間にか後ろに立っていた白髪の女の人が静かに頭を下げた。
質素な灰色の服を着た、老侍女だった。
「この子を部屋へ。まずは体を温めさせろ。医者の診察は明日にする」
「承知いたしました。……リゼット様、こちらへ」
辺境伯様はそれだけ言うと、背を向けて屋敷の奥へと歩いて行ってしまった。
優しい言葉をかけられたわけではない。頭を撫でられたわけでもない。
でも、彼は私を『客人』と呼んでくれた。
暖かい部屋と、お医者様を約束してくれた。
お父様のように、私を値踏みするような目で見なかった。
「リゼット様、お荷物をお持ちいたします」
マルタさんに案内された部屋は、王都の私の部屋よりもずっと狭かった。
豪華な天蓋付きのベッドも、美しい刺繍の絨毯もない。
けれど、石造りの壁からは隙間風一つ入ってこず、大きな暖炉には赤々と火が燃えていた。
「温かいスープをご用意しております。胃に優しいものですから、少しだけでも口になさってください」
小さなテーブルの上に、湯気を立てる木のお椀が置かれていた。
いい匂いがした。
冷え切っていた指先が、スープの温もりで少しずつ溶けていく。
一口飲むと、野菜の甘い味が口からお腹の底までじんわりと広がった。
美味しい。
温かい。
公爵家を出てからずっと張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
怖い人だと思ったけれど、辺境伯様は私を人間として扱ってくれた。
ここでなら、もしかしたら、静かに暮らせるかもしれない。
鼻の奥がツンとして、視界が滲みそうになった、その時だった。
「――気を緩めるのは、まだ早いですよ」
突然、部屋の隅の暗がりから、冷たい声が響いた。
ハッとして顔を上げると、暖炉の火が届かない影の中に、人が立っていた。
頭からつま先まで、深い黒のドレスに身を包んだ女の人だった。
カラスの羽のように黒い髪をきつく結い上げ、銀縁の眼鏡の奥で、冷たい氷のような瞳が私を射抜いていた。
「あなたが、王都から捨てられたリゼット・オルブライトですね」
女の人が一歩、光の中へ進み出る。
手には、分厚い本と、数枚の白い紙が握られていた。
「私はマグダレーナ・クロウ。明日から、あなたを教える者です」
その人の醸し出す空気は、王都で私を「教育不能」と切り捨てたあのラングレー先生よりも、ずっと重くて、冷たかった。
私はスープの匙を持ったまま、震えそうになるのを必死に堪えた。
女の人は、私の顔を見て、ピクリとも笑わなかった。
「泣くなら、今夜のうちに」
そして、冷たい宣告のように言った。
「明日からは、泣いた理由を説明していただきます」




