第1話 黙って笑えない五女
「リゼット。あなたは、どうして普通に笑えないの」
お母様は、今日も私を見てため息をついた。
私はただ、家庭教師の先生が読み上げた詩の年号が間違っていると言っただけだった。
「その年、王妃様はまだ嫁いでいません」
「リゼット」
お母様の声が、少し低くなる。
「……そういうところよ」
そういうところ。
私は、その言葉が世界で一番嫌いだった。
王都で一番人気があるというラングレー先生の特別授業。
日差しの入る明るい遊戯室には、美しい刺繍が施された絨毯が敷かれ、甘い紅茶の香りが満ちていた。
ラングレー先生は、建国期の王族の愛を讃える古い詩を、とても良い声で朗読していた。
長女のアデライードお姉様も、次女のベアトリスお姉様も、背筋をピンと伸ばして、絵画のように美しく微笑んでそれを聞いていた。
三女のクラリスお姉様も、四女のディアナお姉様も、扇の陰で上品に相槌を打っている。
誰も、その詩がおかしいだなんて気にしていない。
年代記によれば、その詩が作られたとされる年に、他国から王妃様はまだ輿入れしていないのだ。登場するはずのない人物が、さも最初から隣にいたかのように語られている。
ただ、年代がずれている。
どこが違うのか。どうして間違っているのか。
私が聞きたかったのは、それだけだった。
けれど、私のその一言で、ラングレー先生の滑らかな朗読はピタリと止まってしまった。
先生の顔は引き攣り、手にした本が微かに震えていた。
「……本日は、ここまでにいたしましょう。奥様、私には少々、荷が重すぎるようです」
ラングレー先生は、私の方を見ようともせずにそう言って、足早に部屋を出て行ってしまった。
残されたのは、重くて、冷たい空気だけ。
「本当に、あなたという子は……。公爵家の娘として、ただ黙って、可愛らしく笑っていればいいだけなのに」
お母様は、ひどく疲れたような顔で私を見下ろした。
怒っているというよりは、呆れ果てている目だった。
その目が、私はとても怖かった。
「お、お母様……私は、ただ……」
「言い訳は聞きたくありません。少し、頭を冷やしなさい」
お母様もまた、ドレスの裾を翻して部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……あなたみたいな子が公爵家にいたことが、恥ね」
ポツリと、四女のディアナお姉様が言った。
いつもはお母様の口調を真似て上品に笑っているお姉様が、今は氷のような目で私を見ている。
「そうよ。リゼットのせいで、またラングレー先生のご機嫌を損ねてしまったわ。どうしてあなたは、いつもいつも空気を壊すの?」
三女のクラリスお姉様が、扇をパチンと鳴らして冷たく言い放った。
「違うの、私はただ、本に書いてある数字と違うって……」
「そういう理屈っぽいところが可愛げがないって、言われているのよ」
お姉様たちは、それ以上私を見ることはなかった。
連れ立って部屋を出て行く背中を、私はただ見送ることしかできなかった。
膝の上で、きつくドレスの布地を握りしめる。
指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥のモヤモヤは消えなかった。
正しいことを言ってはいけないの?
間違っている数字を見つけても、黙って笑っていなければならないの?
少し前もそうだった。
厨房の帳簿を見せてもらった時、小麦の納品数と、実際に使われた数のズレを見つけた。
メイドたちがこっそり余分に持ち出していることに気づいて教えたのに、料理長も、お母様も、誰も私を褒めてはくれなかった。
むしろ、「子供が厨房の裏側に口を出すものではない」と、ひどく叱られたのだ。
大人の言うことは、矛盾している。
数字は嘘をつかないのに、大人は嘘の数字を並べて、それに合わせて笑うことを求める。
私が間違っているのだろうか。
上手に笑えない私が、悪い子供なのだろうか。
ポツリと、絨毯に丸い染みができた。
泣いてはいけない。泣いたら、また「可愛げがない」と叱られる。
必死に唇を噛んで堪えていると、静かな部屋に、重い足音が響いてきた。
「リゼット。旦那様がお呼びです」
やってきた執事の言葉に、私はビクッと肩を揺らした。
お父様の書斎は、屋敷の奥深くにある。
重厚な黒檀の扉の前に立つと、中から話し声が聞こえてきた。
「……もはや、私の手には負えません。あの子は、教育不能です」
ラングレー先生の声だった。
先ほどの引き攣った声とは違う、はっきりと私を切り捨てるような、冷たい響き。
「礼法も、暗記も、歴史の教訓も、あの子はすべて『理屈』で台無しにする。あのままでは、いずれ社交界で取り返しのつかない不敬を働きますぞ」
「……分かった。ご苦労だったな、ラングレー」
お父様の、低くて静かな声。
心臓が、ドクン、ドクンと嫌な音を立てる。
足がすくんで逃げ出したかったけれど、執事に促され、私は震える手で扉を開けた。
「お、お父様……お呼びでしょうか」
書斎の奥、大きな机の向こうで、お父様が書類から顔を上げた。
氷のように冷たい、灰青色の目。
私と同じ色のその瞳には、家族に向けるような温かさは欠片もなかった。
「リゼット」
名前を呼ばれただけで、息が詰まりそうになる。
「ラングレー先生の授業で、また出過ぎた真似をしたそうだな」
「あ、あれは……先生が読んだ詩の年号が……」
「数字が違っていた。だからどうしたと言うんだ」
お父様の言葉に、私は息を呑んだ。
違うのは分かっている。分かっているのに、どうして。
「お前は、自分が賢いと思っているのか?」
「そ、そんなことは……」
「賢いのだろうな。お前の目は、よく物を見る。帳簿の僅かなズレも、歴史書の矛盾も、大人の建前も、すべて見抜いてしまう」
お父様は、立ち上がって窓の外を見下ろした。
その横顔は、娘の成長を喜ぶ親のそれではなかった。
得体の知れない爆弾を検分するような、底知れない警戒心。
「だが、それは公爵家には不要なものだ」
はっきりと、断言された。
「貴族社会において、最も重要なのは『和』だ。相手の嘘に気づいても、気づかないふりをして優雅に微笑む。それが公爵家の令嬢としての役割だ。お前のように、いちいち真実を突きつけて回るような娘は、家の利益を損なうばかりか、致命的な敵を作る」
「お父様……」
「もうよい。お前には失望した。王都の空気を乱す娘を、このまま屋敷に置いておくわけにはいかない」
お父様は、再び机に向かい、羽ペンを手にした。
さらさらと、何か冷たい決定を下す音が響く。
捨てられる。
はっきりと、そう理解した。
私は、この大きくて美しい公爵家で、たった一人、いらない子供だったのだ。
「辺境のクロウ女史に預けろ」
お父様は、私を見ずに言った。
「あの偏屈なら、この子の生意気な口も、少しは直るだろう」
それが、私が家族から突きつけられた、最後の言葉だった。




