第39話 辺境に残る
絶望と後悔に打ちひしがれたお父様とお母様、そして教育評議会の役人たちが、逃げるようにして馬車に乗り込み、吹雪の向こうへ消えていった後。
執務室には、嵐が過ぎ去ったあとのような、深い静寂が降りていた。
「終わったぞ、リゼット」
ギデオン様の太くて温かい声を聞いた瞬間。
私の足からパタッと力が抜け、そのまま絨毯の上にへたり込んでしまった。
震えが、後から後から波のように押し寄せてくる。怖かった。あの一歩を踏み出して自分の意思を叫ばなければ、私は本当に、あのまま馬車に押し込まれて王都へ連れ戻されていたのだ。
「よく頑張った。お前は自分の力で、自分の人生を勝ち取ったんだ」
ギデオン様の大きな手が、私の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。
「お疲れ様でございました。温かいスープをお持ちしましたよ」
いつの間にか部屋に入ってきていたマルタさんが、湯気を立てるボウルを私の手に持たせてくれた。
一口飲むと、野菜とお肉の優しい味が、冷え切ったお腹の底からじんわりと広がっていく。
「私、もう、どこにも行かなくていいのですね……」
ボウルを持ったままポロポロと涙をこぼす私を、教壇の前に立つマグダレーナ先生が静かに見下ろしていた。
「当たり前です。明日の古典の課題も終わっていない生徒を、王都へ帰すわけがありません。今日はもう休んでよろしいですが、明日の朝はいつもの時間に教室へ来なさい」
先生の言葉は、相変わらず容赦がなくて、少しも甘やかしてはくれない。
でも、その氷のように澄んだ声の奥に、確かな安堵の響きがあるのを、私はもう知っていた。
私は涙を拭って、「はい!」と大きく返事をした。
それから、数週間が経った。
分厚い雪に閉ざされていた辺境の景色にも、少しずつ緑の芽が顔を出し始め、冷たかった風の中に柔らかな春の匂いが混じるようになった頃。
辺境伯邸に、王都から再び使者がやってきた。
ただし、今度やってきたのは教育評議会の役人ではなく、王立学術院の制服を着た文官だった。
「レーヴェン辺境伯閣下、ならびにマグダレーナ・クロウ女史。この度は、喜ばしい報せをお持ちいたしました」
執務室に通された文官は、とても丁寧な態度で一つの筒を差し出した。
「リゼット・オルブライト嬢の試問における圧倒的な成績、および提出された生活記録と教育方針の精緻な証明により。マグダレーナ・クロウ女史が主宰する私塾を、国公認の『辺境学舎』として正式に認可することが決定いたしました」
「正式な、認可……」
私は思わず呟いた。
それは、先生の教室が、王都の大人たちから「魔女の怪しい洗脳施設」ではなく、正しい教育機関として国に認められたということだ。
これで、ミナたち平民の子供も、身分を気にせずに堂々とここで学ぶことができる。
「それと、もう一つ。クロウ女史へ、王立学院からの親書をお預かりしております」
文官は、もう一つの封筒を先生に差し出した。
「女史の卓越した教育手腕は、今回の件で王都中が知るところとなりました。つきましては、王立学院の主席教官として、あなたを破格の待遇で再招聘したいとの打診でございます」
私は、心臓が跳ね上がるのを感じた。
先生は、もともと王都の最高峰にいた人だ。あの息の詰まる大講堂で、私の言葉を証明するための武器を与えてくれた天才。
王都の大人たちがその価値を再認識したのなら、先生は、こんな寒い辺境にいる必要はなくなってしまう。
先生が、王都へ帰ってしまう?
私が不安で息を飲んだその時、先生は差し出された封筒を受け取ることなく、冷ややかな声で言った。
「お断りします」
「えっ……? しかし、待遇はかつての倍以上を約束すると……」
「お金の問題ではありません。私にはこの辺境で、基礎の計算もままならない、手のかかる生徒たちを教える義務があります。王都の優秀な子供たちに構っている暇などありません」
文官がどれだけ食い下がっても、先生は銀縁の眼鏡の奥の目を一切細めず、ピシャリと撥ね退けた。
結局、文官は困り果てた顔で、再招聘の書類を持ったまま王都へ帰っていくしかなかった。
使者が去った後の執務室。
私はホッとして胸を撫で下ろしたが、ギデオン様は腕を組んだまま、険しい顔で窓の外を見ていた。
「……王都の狸どもは、諦めが悪いぞ、マグダレーナ」
ギデオン様が、低く静かな声で切り出した。
「お前がああして突っぱねても、奴らはお前の教育手腕を手に入れるために、またあの手この手で難癖をつけて、王都へ連れ戻そうとするだろう」
「分かっています。ですが、どのような法的な脅しが来ようと、私はこの教室を離れるつもりはありません」
先生が真っ直ぐに答えると、ギデオン様はゆっくりと先生の方へ向き直った。
「ならば、ずっとここにいればいい」
「は……?」
「この辺境学舎ごと、レーヴェン領で完全に引き受ける。お前が二度と王都の権力に奪われず、自分の信じる教育を貫けるように、俺が一生、お前の盾になる」
ギデオン様は、無骨な手をまっすぐに先生に向けて差し出した。
「だから、俺の妻になれ、マグダレーナ」
執務室の空気が、ピタリと止まった。
私は、目を丸くして二人を交互に見つめた。
結婚? 辺境伯様と、魔女先生が?
八歳の私には、大人同士の難しい駆け引きや、身分を伴う結婚の重みなんて、まだよく分からない。
それに、ギデオン様はちっともロマンチックじゃなかった。まるで「明日からこの畑を耕せ」と命令するような、ひどく不器用で真っ直ぐすぎるプロポーズ。
先生は、数秒間、完全に言葉を失ってギデオン様の手を見つめていた。
やがて、カチャリと眼鏡を押し上げると、いつものように氷のような無表情を取り繕った。
「……突然、何を言い出すのですか。閣下は、ご自分の領地の帳簿もまともに計算できないくせに。私がいないと、税の計算一つできないではありませんか」
冷たく、可愛げのない返事。
でも、私は見てしまった。
先生の横顔。その銀縁の眼鏡にかかる耳が、まるで熱を出したみたいに、真っ赤に染まっているのを。
ギデオン様も、差し出した手を下ろさずに、少しだけ顔を赤くしてそっぽを向いている。
なんだかそれがすごくおかしくて、私は口元を押さえて、小さくふふっと笑ってしまった。
冷たいようで本当は誰よりも優しい、怖い先生と。
無愛想で不器用だけど、絶対に私を守ってくれる辺境伯様。
二人がいて、マルタさんの温かいスープがあって、赤いインクで直された答案がある。
怖い先生と、不器用な辺境伯と、赤いインクのある場所。そこが私の帰る場所だった。




