第37話 母の涙
王都教育評議会の役人たちが突きつけてきた『命令書』の圧力で、執務室の空気は凍りついていた。
私が辺境で学んだことすべてを「洗脳」と決めつけ、私という人間の意思を完全に無効化する、暴力的なまでの大人のルール。
「さあ、馬車へ。公爵閣下と奥様が、首を長くしてお待ちです」
公爵家の使者が、ニタニタと嫌な笑みを浮かべて私に歩み寄ろうとした、その時だった。
「リゼット……! ああっ、私のリゼット!」
執務室の重い扉が開き、絹の擦れる音とともに、一人の女性が転がり込むようにして入ってきた。
厚い外套を羽織り、辺境の冷たい風に肩を震わせているその人を見て、私は息を呑んだ。
「お母様……」
いつも完璧な化粧とドレスで身を包み、私を冷たい目で見下ろしていたお母様。
でも、今、私の目の前にいる彼女は、髪も少し乱れ、その目からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「よかった、無事だったのね。こんな恐ろしい、野蛮な場所に閉じ込められて……さあ、一緒に王都へ帰りましょう。お母様と一緒に!」
お母様は、私を抱きしめようと両手を伸ばしてきた。
私は思わず、ビクッと後ずさりして、ギデオン様の大きな背中に隠れてしまった。
「……触るな」
ギデオン様が、低い声で威嚇するように言った。
「ずいぶんと白々しい涙だな、公爵夫人。この子を『教育不能』と見捨てて、荷物のように辺境へ送りつけてきたのはあんたたちだろうが」
「違います! 私は、この子を守りたかっただけなのです!」
お母様は、ギデオン様の剣幕にも怯むことなく、必死の形相で叫んだ。
その顔には、嘘をついている様子はなかった。本当に、心の底から私を心配している母親の顔だった。
私は、ギデオン様の背中の陰から、お母様の顔をじっと見つめた。
「リゼット……お願い、分かってちょうだい。あの大講堂で、あなたが大勢の大人たちを相手に真っ向から刃向かったのを見て、お母様、本当に恐ろしかったのよ」
お母様は、震える両手で自分の顔を覆い、しゃくりあげた。
「女の子はね、賢さや正しさで男たちと戦ってはいけないの。矛盾に気づいても、それを口にしてはいけない。ただ黙って、ニコニコと可愛らしく笑って、場を荒らさないようにしていれば、偉い大人たちが安全な場所で守ってくれるのよ。それが、貴族の女が幸せに生き延びるための、たった一つの正しい道なの……!」
お母様の言葉を聞いて、私はストンと腑に落ちた。
お母様は、ただ冷酷なだけの親ではなかったのだ。
彼女自身もまた、そうやって「黙って笑え」と教育され、感情を殺し、理不尽なことにも目を瞑って、公爵夫人という地位で生き延びてきた人だった。
だから、王都の試問で、私が自分の言葉で大人の嘘を暴き、大勢の男たちを黙らせた姿が、彼女には「正気の沙汰ではない、危険な異常行動(洗脳)」にしか見えなかったのだ。
お母様の涙は、演技じゃない。
彼女は本気で、私がこのままでは不幸になると思い込み、自分の処世術という『歪んだ愛』で、私を強引に保護しようとしているのだ。
「寝言は自分の屋敷のベッドで言え」
ギデオン様が、鼻で笑って言い放った。
「黙って笑っていれば守られるだと? ふざけるな。それはお前たちが、自分で考えることを放棄して、男たちに飼われるペットになる道を選んだだけだ。リゼットはもう、あんたたちの大人の都合で動く人形じゃない!」
ギデオン様は、私をかばうように、さらに一歩前へ出ようとした。
その広くて頼もしい背中に守られていれば、私は安全だ。彼がこのまま王都の役人もお母様も追い返してくれれば、私は何も言わずに、この温かい辺境に残ることができる。
でも。
「……閣下、お下がりください」
部屋の隅から、静かで、氷のように冷たい声が響いた。
マグダレーナ先生だった。
「マグダレーナ? 何を言っている、相手は評議会の命令書を持ってきたんだぞ。俺が突っぱねなければ……」
「ええ。あなたが武力と辺境伯の権力を縦にして彼らを追い返せば、今日この場はしのげるでしょう」
先生は、ギデオン様の横に並び立ち、その銀縁の眼鏡の奥から私を真っ直ぐに見つめた。
「ですが、それでは意味がないのです。ここで大人のあなたが彼女を力で守り切ってしまえば、リゼットは結局、『親』から『辺境伯』へと、自分を守ってくれる保護者がすげ替わっただけになってしまう」
私は、ハッと息を呑んだ。
先生の言葉が、鋭いナイフのように私の胸に突き刺さった。
先生は、ずっと私に教えてくれていたじゃないか。
守られるだけでは、また奪われるのだと。
王女様が、周りの大人を信じて契約書に署名してしまったように。私が、ギデオン様の背中に隠れて、彼が全部解決してくれるのを待っているだけなら。
私は、自分の足で立っているとは言えない。
お母様が言う「男たちに守られて生きる」お人形と、何一つ変わらないのだ。
「……」
私は、ギュッと両手を握りしめた。
先生の言いたいことは、痛いほど分かった。
私がいらない子として捨てられた、あの日から続く因縁。
王都の評価制度(試問)には勝てた。でも、最後の敵は、私を「愛している」と信じて疑わない、この実の母親だ。
お母様の歪んだ愛を、王都の腐った常識を、私が私自身の意思で拒絶し、論破しなければ、この戦いは終わらない。
私は、震える足を一歩踏み出し、ギデオン様の背中の陰から抜け出した。
「リゼット……?」
ギデオン様が、驚いたように私を見下ろす。
私は、ギデオン様と、その隣で無言で私を見つめる先生を見上げて、小さく頷いた。
そして、涙を流すお母様と、冷たい目をした役人たちの前に、一人で立った。
守られて勝っても、それは私の答えではない。




