第36話 命令書
先生の赤いインクで真っ赤に染まった羊皮紙を隣に置き、私は一文字ずつ丁寧に、新しい羊皮紙へ清書をしていった。
『私の意思は私自身にあり、公爵家への帰還を拒否する』
先生に何度も直され、研ぎ澄まされたその文章は、私が辺境で学んだ知識と、自分で立てた問いから導き出した、何よりも確かな私自身の言葉だった。
文章の最後に「リゼット・オルブライト」と自筆で署名し、赤い蝋を垂らして紋章のスタンプを押し当てる。
これで、未成年である私にできる、最大限の法的な武器が完成した。
「よくできました」
横で見ていたギデオン様が、満足そうに頷いた。
「俺たちが用意した証拠書類に、お前自身の陳述書を添える。これで王都の教育評議会も、安易に公爵家の言い分だけを通すことはできなくなるはずだ」
私は、完成した書類を胸に抱き、ホッと息を吐いた。
法と制度という大人の武器には、同じく法と制度で立ち向かうしかない。先生が教えてくれた通りだ。
これで、また元の厳しいけれど笑われない教室に戻れる。
そう思っていた矢先だった。
「旦那様! 申し上げます!」
玄関の警備を任されていた騎士が、ただならぬ様子で執務室に駆け込んできた。
「王都から、馬車が数台到着しました。……オルブライト公爵家の紋章を掲げています。それに、同行しているのは王都教育評議会の役人のようです」
「なに?」
ギデオン様の顔が、険しく引き締まった。
窓から外を見下ろすと、雪の積もる中庭に、辺境には似つかわしくない華美な装飾が施された馬車が止まっていた。そこから、分厚い外套を着た数人の男たちが降りてくるのが見える。
「評議会の役人を直接連れてきただと? まだこちらの反証書類も届いていないはずだぞ」
「……彼らは、最初からこちらの言い分など聞く気はないのでしょう」
部屋の隅にいたマグダレーナ先生が、冷ややかな声で言った。
先生の目は、窓の外の男たちを鋭く観察していた。
「公爵家は、評議会の正式な審議を通さずに、上位の権力を使って強引に決定を下させたのです。……来ますよ」
間もなく、執務室の重い扉がノックされ、王都の役人たちが足を踏み入れてきた。
先頭に立つのは、神経質そうな細面の男だった。彼は、ギデオン様に向かって一礼もせず、冷徹な目で室内を見回した。そして、私と先生の姿を認めると、懐から王家の紋章が押された巻物を取り出した。
「レーヴェン辺境伯閣下。王都教育評議会より、正式な『命令書』をお持ちいたしました」
役人の男は、感情の乗らない事務的な声で、巻物を読み上げ始めた。
『オルブライト公爵家五女、リゼット・オルブライト嬢について。現在、彼女は辺境の私塾において、元王立学院教官マグダレーナ・クロウの手により、不当に留め置かれているとの重大な申し立てを受理した』
「不当だと? ふざけるな」
ギデオン様が、低い声で唸るように遮った。
「リゼットは正式な教育委託状のもとにここにおり、先日の特別試問では学術院からその正当な知性を認められたばかりだ。留め置いている事実などない」
「辺境伯閣下。これは審議ではなく『決定事項』の通達です」
役人は、ギデオン様の凄みにも一切怯むことなく、冷たく言い放った。
「学術院での彼女の異常なまでの振る舞い。そして、実家の当主である公爵への反抗的な態度。評議会は、これらを『マグダレーナ・クロウによる悪質な洗脳の結果』であると判断いたしました」
「洗脳……!?」
私は、思わず叫んでしまった。
洗脳だなんて、そんなわけがない。私が自分の頭で考えて、自分の言葉で試問に答えたことは、会場にいた全員が見ていたはずだ。
「ええ。まだ八歳の幼い令嬢が、あのような大人びた詭弁を公の場で口にするなど、異常な教育を施された結果としか考えられません。彼女は判断能力を奪われ、実家を憎むように思考を誘導されているのです。……したがって」
役人は、巻物の最後、最も重い一文を読み上げた。
『未成年の保護を最優先とし、実家であるオルブライト公爵家が持つ後見権を全面的に支持する。レーヴェン辺境伯は、ただちにリゼット・オルブライト嬢を公爵家の使者に引き渡し、王都への帰還に協力せよ。これに従わぬ場合、辺境伯家にも王命への反逆の疑いがかかるものとする』
大理石のように冷たく、重い言葉が、執務室に突き刺さった。
「……王命への反逆、だと?」
ギデオン様の太い腕に、ギリッと青筋が浮かんだ。
これは、ただの教育問題ではない。辺境伯という地位そのものを脅かす、恐ろしい政治の暴力だった。
公爵家は、私を取り戻すためなら、ギデオン様を反逆者として貶めることも辞さないというのだ。
「私たちが用意した反証書類はどうなるのですか」
先生が、静かに一歩前に出た。
「法的な手続きに則り、彼女の意思を示す文書と、私の教育の正当性を証明する記録を……」
「無駄ですよ、クロウ女史」
役人は、虫けらを見るような目で先生を一瞥した。
「洗脳されている子供の意思など、法的に何の効力も持ちません。実の父親が『娘が異常な状態にあるから保護する』と主張し、評議会がそれを認めた。それがこの国における絶対の『正解』なのです。あなたのような過去に問題のある人間に、口出しする権利はありません」
役人の言葉は、暴力よりもずっと深く、鋭く私たちの反撃を封じ込めた。
私が一生懸命に書いた陳述書も、ギデオン様が用意してくれた完璧な証拠の山も、すべて「洗脳されているのだから無効だ」という理不尽な言葉一つで、紙くず同然にされてしまったのだ。
「荷物をまとめなさい、リゼット嬢」
役人の後ろに控えていた公爵家の使者が、私に向かって手を差し出した。
「公爵閣下も、奥様も、あなたの帰還を心待ちにしておられます。辺境の魔女から引き離し、王都の正しい医療と教育を受けさせれば、あなたもすぐに元の『愛らしい娘』に戻れると、涙ながらに案じておられましたよ」
私は、その言葉を聞いて、全身の血が沸騰するような怒りと、それ以上の恐ろしさを感じた。
お母様が涙ながらに案じている?
違う。彼らは、私を愛しているから迎えに来たのではない。
王都の天才を黙らせるほどの知恵を持った私を、自分の支配下に置き、都合よく利用するために。そして、私が自分の足で立ち、自分の言葉を持つことを『病気』だと言いがかりをつけて、もう一度「黙って笑え」と鎖で縛りつけるために来たのだ。
それを『保護』という美しい言葉で包み隠し、国の制度という絶対に逆らえない力を使って、私を無理やり奪い去ろうとしている。
ギデオン様は拳を握り締め、先生は無言のまま私を守るように前に立ってくれている。
でも、もし私がここで抵抗すれば、辺境伯家は反逆者になってしまう。私に温かいスープをくれたマルタさんや、雪道を教えてくれたミナたちの平穏な生活まで、めちゃくちゃになってしまう。
私は、息を詰まらせ、役人が突きつけている王家の紋章が入った命令書を睨みつけた。
捨てたはずの家が、「保護」の名で迫ってきた。




