第35話 リゼット自身の署名
「……どうしても、書くと言うんだな」
ギデオン様は、腕を組んで難しそうな顔で私を見下ろした。
私は執務室の机を借りて、真っ白な羊皮紙とインク壺を用意し、ペンを握りしめていた。
「はい。ギデオン様が用意してくださった証拠は完璧です。でも、それだけだと『辺境伯様が私を守ってくれている』という大人の事情にしかなりません。私は、私自身の意思でこの辺境にいたいのだということを、自分の言葉で証明したいんです」
私が真っ直ぐに見上げて答えると、ギデオン様は小さくため息をついた。
「気持ちは分かるが、相手は王都の教育評議会だぞ。八歳の未成年がどれだけ立派な意思を示そうと、親の持つ『後見権』の前では、法的な効力は無いに等しい」
「法的に弱くても、いいんです。私の意思がここにあるという証拠を残すこと自体に、意味があるはずですから」
私は、先生から教わったことを思い出していた。
王都へ報告書を送る時、先生は私に自筆で署名させ、認証封蝋の手順を叩き込んだ。あれは、私の功績を大人のものにさせないための防衛策だった。
同じだ。今、私が自分の意思を言葉にして署名を残さなければ、王都の大人たちはまた「子供は何の意思も持たない人形だ」と決めつけて、私の運命を勝手に書き換えてしまう。
私が強い決意を込めて羊皮紙に向かうと、ギデオン様は「勝手にしろ」と呆れたように肩をすくめたが、その目はとても優しかった。
私は、何枚もの紙を丸めながら、必死に言葉を紡いだ。
私が辺境で何を学び、どうしてここが自分の帰る場所になったのか。お父様のもとへ帰れば、どうして自分がダメになってしまうのか。
数時間後、やっとの思いで書き上げた陳述書を、私は教壇の先生の元へ持っていった。
「先生、書けました。確認をお願いします」
先生は、私が差し出した羊皮紙を受け取ると、無言で銀縁の眼鏡のブリッジを押し上げた。
そして、あの恐ろしい赤いインクのペンを手に取った。
カリッ、カリッ、カリカリカリッ。
静かな教室に、ペン先が紙を鋭く引っ掻く音だけが響く。
「……感情的すぎます。ここからここまでの三行、法的な陳述書には不要な修飾語です」
先生は、私が一番気持ちを込めて書いた部分を、容赦なく赤い線で横断して消し去った。
「ここの論理の飛躍は致命的ですね。『お父様のもとへ帰れば自分がダメになる』という主観的な推測ではなく、『公爵家の教育方針と現在の自己の成長方針が明確に乖離している』という客観的な事実のみを述べなさい。この言い回しでは、王都の役人に『単なる親への反抗期だ』と揚げ足を取られて終わります」
赤、赤、赤。
先生の手は止まることなく動き続け、私の書いた羊皮紙は、あっという間に血を流したように真っ赤に染まってしまった。
昨夜、教室であんなに深く語り合い、私を一人の人間として認めてくれたはずなのに。
授業(添削)となれば、先生は一切の容赦をしてくれなかった。
以前の私なら、これほど真っ赤にされた自分の文章を見れば、間違いなく泣き出していただろう。「一生懸命書いたのに、また全部ダメだと言われた」「やっぱり私は、出来の悪い子供なんだ」と萎縮して、声を出せなくなっていたはずだ。
でも、今の私は、自分の答案が赤く染まっていくのを見ても、悲しくなかった。
むしろ、真っ赤な線が引かれるたびに、自分の持っている粗末な木の盾の上に、分厚くて頑丈な鉄の板が重ねられていくような、そんな強い安心感を覚えていた。
先生は、私の気持ちを否定しているんじゃない。
私の言葉が、王都の大人たちの狡猾な論理の刃で簡単に切り裂かれないように。
私が自分の力で自分を守れるように、私の言葉という武器を、一生懸命に鍛え上げてくれているのだ。
「……以上です」
先生は、ため息をついてペンを置いた。
私が受け取った羊皮紙は、もう元の黒いインクの文字が読めないくらい、赤い修正指示で埋め尽くされていた。
「情熱は伝わります。自分の意思を言語化しようとした点については、褒めるところはあります」
先生は、冷たい声で、ほんの少しだけ私を評価した。
でも、その直後にいつもの厳しい目が私を射抜いた。
「ですが、直すところの方が多い。これでは王都の役人に鼻で笑われます。……不合格です。最初からやり直しなさい」
突き放すような、いつもの言葉。
私は、真っ赤な答案用紙を胸に抱きしめた。
「はい! すぐに書き直してきます!」
私は、大きく返事をして、とびきりの笑顔を作った。
先生は、私が泣かずに笑ったことに一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、すぐにフイッと顔を背けて「急ぎなさい」とだけ言った。
怖い先生も。容赦のない赤インクも。
辺境のお屋敷に来た日から、何一つ変わっていない。
でも、私はもう、泣いた理由を説明できずに震えるだけの子供じゃない。
先生は変わらない。私が、受け取り方を変えた。




