表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の天才たちを黙らせる  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/40

第34話 なぜ言ってくれなかったのか

ギデオン様が王都の教育評議会と戦うための反証書類を揃え、「今度は絶対に奪わせない」と力強く宣言してくれた日の夜。

辺境伯邸は、公爵家という巨大な敵を迎え撃つための静かな熱気と緊張感に包まれていた。


私は自室のベッドに座り、ランプの小さな炎を見つめていた。

ギデオン様の無骨で分厚い手や、私を守るために用意された完璧な書類の山を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。私は決して一人じゃない。この温かい辺境の大人たちが、全力で私を守ろうとしてくれている。


でも。

その安心感の裏側で、私の心の中には、どうしても消し去ることのできない「ある感情」が渦巻いていた。


私は立ち上がり、冷たい廊下に出た。

足音を忍ばせて向かったのは、夜の教室だった。

ドアを少しだけ開けると、魔導灯の明かりの下で、マグダレーナ先生が一人、机に向かっていた。ペン先が紙を擦るカリカリという音と、ツンとしたインクの匂いが漂っている。


「……何用ですか、リゼット。明日の予習が終わっていないのなら、居残りで課題を出しますが」


先生は、書類から目を上げることもなく、淡々とした声で言った。


私は、ゆっくりと教室の中に入り、先生の机の前に立った。

いつもなら、先生の冷たい声を聞いただけで背筋が伸びてしまう。けれど、今夜の私は違った。


「先生。私は、怒っています」


私の口から出たはっきりとした言葉に、先生のペンの動きがピタリと止まった。


「……ほう。命の恩人に向かって、ずいぶんな言い草ですね。何に対して怒っているのですか」


先生は、銀縁の眼鏡の奥から私を静かに見据えた。


「先生が、私の手紙を破って、罠から守ってくれたことには深く感謝しています。……でも、どうして『後見権』という制度があること、大人が法を使って子供を縛れるという事実を、授業でもっと早く教えてくれなかったのですか?」


私の声は、少しだけ震えていたかもしれない。でも、絶対に視線は逸らさなかった。


「王都の歴史や、帳簿の計算、礼法の裏の意味は教えてくれたのに。一番恐ろしい『制度の罠』のことは、私が巻き込まれるまで、ずっと黙っていました。……先生は、私を信じてくれていなかったのですか?」


それは、私の中にある切実な問いだった。

私は、ただ守られるだけの「無知な子供」のままではいたくなかったのだ。王都で自分の答えを証明できたと思っていたのに、結局、私は先生の過保護な盾の後ろに隠れていただけだったのではないか。それが、悔しくてたまらなかった。


先生は、私を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「『後見権』という法制度について、知識として教えること自体は簡単です。ですが、私がそれを教壇で口にしてしまえば、あなたはどう受け取りましたか?」


「それは……」


「『先生がそう言っているから、法律とは怖いものなのだ』と、ただ暗記しただけでしょう。……それでは、ダメなのです」


先生は、机の上に置かれていた古い法典をポンと叩いた。


「大人の悪意は、常に形を変えて襲ってきます。私が『この法律は危険だ』と教えたところで、次に彼らが別の制度を使ってきた時、あなたはどうしますか? また誰かが答えを教えてくれるのを待つのか。それとも、美しい笑顔を浮かべて、言われるがままに書類に署名をするのですか」


先生の言葉には、かつての教え子であるエレオノーラ王女様を救えなかった、あの深い後悔と痛みが滲んでいた。


「教えられた答えを信じるだけでは、大人の悪意の前に立った時、結局はまた大切なものを奪われます。……言葉の裏にある嘘や、制度に隠された罠は、自分の目で読んで、自分自身の頭で考えて気づく必要があったのです」


だから、先生は私に『答え』を教えなかったのだ。

私が自分の力で考え、問いを立てる習慣を身につけるまで、あえて何も言わずに、ただ私の前に立ちはだかる壁であり続けた。


「……先生の言う通りかもしれません」


私は、ギュッと両手を握りしめた。


「でも! 私はもう、お母様の言う通りに黙って笑うだけのお人形じゃありません。先生が教えてくれれば、私は自分の頭で、どうすれば自分を守れるのかを一生懸命に考えました!」


私の叫び声が、夜の教室に響いた。

これは、ただのわがままではない。私が辺境で学び、王都の大講堂で証明してきた、私自身の『成長』の主張だった。

もう、私を何も知らない子供扱いしないでほしい。危険なことも、恐ろしいことも、全部私に教えてほしい。一緒に戦うための武器を、私にも持たせてほしい。


先生は、少しの間、目を丸くして私を見ていた。

いつも私を見下ろしていた厳しい目が、ほんの少しだけ、揺らいだように見えた。


やがて、先生はゆっくりと目を伏せ、小さく息をついた。


「……確かに。あなたはもう、あの頃の無防備な子供ではないようですね」


先生の声は、いつもの冷たさが嘘のように、静かで穏やかだった。


「あなたが、自分の力で問いを立てられるほどに成長していたことを見誤っていました。……説明を怠った部分は、私の失敗です」


私は、耳を疑った。

あの、絶対に自分の非を認めず、容赦なく赤いインクでバツをつけるマグダレーナ先生が。

私の目を見て、はっきりと自分の非を認め、謝ってくれたのだ。


「先生……」


「ですが、勘違いしないように」


先生は、すぐにいつもの厳しい顔に戻り、ピシャリと言い放った。


「私が謝罪したのは、あくまで情報の共有を怠った点についてのみです。あなたの生意気な態度や、計算式の粗さを許したわけではありません。明日の授業は、より厳しくしますからね」


相変わらずの憎まれ口に、私は思わずフフッと笑ってしまった。

でも、その言葉の裏にある、私を一人の自立した人間として認めてくれた確かな信頼が、何よりも嬉しかった。


私は、もう一度、先生を真っ直ぐに見上げた。


ギデオン様や先生が、どれほど強力な盾を用意してくれても。

私がただその後ろで震えているだけなら、いつか必ず、その盾は破られる。

公爵家が法を盾にして私を奪いに来るなら、私は、私自身の言葉と意思で、それに抗わなければならない。


守られるだけでは、また奪われる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ