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「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の天才たちを黙らせる  作者: 他力本願寺


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第32話 手紙を破った理由

執務室の机に置かれた、教育評議会からの黒い封筒。

私はそれを見つめたまま、全身の血の気が引いていくのを感じていた。

王女様が、たった一文を読み落としたせいで、自分の子供を理不尽に奪われてしまった過去。それが、私の中にあった、ある一つの記憶とピタリと重なったからだ。


「先生……」


私は、カラカラに乾いた喉から、やっとの思いで声を絞り出した。


「あの時、お父様からの二通目の手紙に書かれていた、『父上のご判断に従います』という一文……。あれは、そういう意味だったのですか?」


先生は、悲痛な過去を語っていた時と同じ、静かで冷たい目のまま、ゆっくりと頷いた。


「どういうことだ、リゼット?」


ギデオン様が眉をひそめて尋ねた。

私は、あの日のことを思い出しながら、震える声で説明した。

王都のお父様から、お母様への返信が無礼だと怒る手紙が届いたこと。「反省しているなら、指定した一文を一字一句違わずに書き写せ」と命令されたこと。


「……なるほど。そういうことか」


ギデオン様は、忌々しそうに舌打ちをした。


「リゼット。その『父上のご判断に従います』という一文はな、ただの親への謝罪や服従の言葉じゃない。もしその手紙を『王都教育評議会』に証拠として提出されれば、『未成年の令嬢本人が、実家の当主が持つ教育権と後見権の行使を自ら承認し、その判断を白紙委任した』という決定的な法の一筆になるんだ」


「白紙、委任……」


「そうだ。お前がその手紙に署名して王都へ送っていれば、公爵家はいつでも、合法的にお前を辺境から連れ戻すことができた。俺がどれだけ『教育委託状』を盾に拒否しようと、お前自身の同意がある以上、抵抗することはできなかったはずだ」


私は、足から崩れ落ちそうになり、慌ててギデオン様の執務机の端を強く握りしめた。


あの日、私は「お父様を安心させれば、この辺境の居場所を守れる」と思って、あの手紙を書いたのだ。

自分の感情も近況も書かない定型文なら、誰かに利用される隙なんてないはずだと、子供なりに必死に論理を組み立てて推測した。


でも、それは完全に間違っていた。

私の「矛盾を見抜く目」なんて、王都の大人たちが張り巡らせた、法と制度の狡猾な罠の前では、まったく使い物にならなかったのだ。

自分が身を守るための盾だと思って身につけようとしていたものは、自分自身の首を絞めるための鎖だった。


私は、教壇の後ろに立つ先生を見た。


「先生……」


私は、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。


「だから、あの夜、私の書いた手紙を破ったのですか?」


私が一生懸命に書き写した手紙を、先生は何も言わずにビリビリに破り捨てた。

私はその時、せっかく自分の居場所を守るために親の命令に従ったのに、それを台無しにされたと思って、初めて先生を「憎い」と思ったのだ。


「どうして……どうしてあの時、私に理由を説明してくれなかったのですか? 『これは罠だ』と教えてくれれば、私だって……」


「あの時のあなたに真実を告げれば、あなたの心は完全に壊れていたからです」


先生は、表情一つ変えずに答えた。


「『実の父親が、あなたを法的に縛り付け、利用するために悪意のある罠を仕掛けてきた』……その事実を受け止めるには、八歳のあなたはあまりにも無防備でした。親からの愛情という希望を完全に絶望させるくらいなら、ただ『理不尽に手紙を破る教師への憎悪』で心を覆い隠し、王都への執着を忘れさせた方が、あなたは辺境で生きていくことができた」


私は、息を呑んだ。

もしあの夜、「お父様はあなたを罠に嵌めようとしている」と教えられていたら。私はきっと、世界中から見捨てられた絶望で、立ち上がれなくなっていた。

先生は、私がお父様を嫌いにならなくて済むように、自分自身が悪者になって、強引に私を罠から引き剥がしてくれたのだ。


「それに」


先生は、私の目から視線を逸らさずに続けた。


「私が『これは罠だ』と答えを教えれば、あなたは『先生がダメと言ったから書かない』と、王都の暗記教育に逆戻りしていたでしょう。……言葉は、時として刃になります。自分の書いた文字が、取り返しのつかない結果を生む恐怖を、あなたは理屈ではなく、骨の髄で知る必要があったのです」


「……」


「さらに言えば」と、ギデオン様が静かに口を挟んだ。

「あの時点で公爵側に『辺境には法的な罠を見抜ける知恵者がいる』と気づかれれば、奴らはより狡猾で逃げ道のない罠を仕掛けてきただろう。リゼット自身が法と制度の恐ろしさに自力で気づくまで、マグダレーナは『ただの理不尽な魔女』を演じ切る必要があったんだ」


私は、ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、先生に向かって深く頭を下げた。


生徒に憎まれることなんて、どうでもよかったのだ。

法的な罠の恐ろしさを知らない無知な子供が、大人の悪意に自ら飛び込もうとしているのを、強引にでも引き剥がすために。

それは、慰めや甘い言葉なんて一つもない、究極の過保護だった。


もしあの時、先生が私の手紙を破ってくれていなかったら。

私は今頃、王都の大講堂で自分の答えを叫ぶこともできず、また「黙って笑え」と縛られる、公爵家のいらない五女に逆戻りしていたはずだ。


「あの夜、先生のことを憎いと思って、ごめんなさい。そして……」


私は、顔を上げて、真っ直ぐに先生の銀縁の眼鏡を見つめた。


「私を、あの罠から守ってくれて、本当にありがとうございました」


私の言葉に、先生は一瞬だけ目を丸くして、すぐにフイッと窓の方へ視線を逸らした。


「……礼を言われる筋合いはありません。私はただ、これ以上自分の目の前で、愚かな子供が書類の文字で人生を台無しにするのを見たくなかっただけです」


相変わらず、可愛げのない、冷たい返事だ。

でも、私は知っている。先生が、どんなに私のことを守ろうとしてくれていたのかを。


「……ですが、私が破ったのは、あの『一通』だけです。根本的な解決にはなっていません。公爵家は今、教育評議会という正規のルートを使って、あなたを奪いに来ています」


机の上の、黒い封筒。

あれを書いていたら、私はもうここにいなかった。

でも、手紙を破ってもらったからといって、危機が去ったわけではないのだ。


あの一文を書いていたら、私はもうここにいなかった。

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