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「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の天才たちを黙らせる  作者: 他力本願寺


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第31話 読み落とした一文

執務室の空気は、暖炉に赤々と火が燃えているのに、ひどく冷え切っていた。


ギデオン様の机の上には、王都から届いた分厚い書類と、マグダレーナ先生の輝かしい過去を証明する経歴書が並べられている。

王立学院の主席教官。王女様の専属教育係。

王都の誰もがひれ伏すようなその立派な肩書きを前にして、先生は、まるで自分の罪を裁く判決文を見つめるような、痛ましげな目をして立っていた。


「……リゼット」


長い沈黙の後、先生はぽつりと私の名前を呼んだ。


「あなたは、不思議に思っていたでしょう。王都でそれなりの地位にあった私が、なぜすべてを捨てて、このような辺境で子供相手に小さな私塾を開いているのか」


私は、コクンと小さく頷いた。

先生は、銀縁の眼鏡にそっと手を触れ、窓の外の雪景色へと視線を向けた。


「私がかつて教育を任されていた、エレオノーラ殿下という王女様がいました」


静かな、ぽつぽつとした語り口だった。

普段の、授業で張りのある冷たい声とは違う、どこか遠くを見るような声。


「エレオノーラ殿下は、それはもう、絵本から抜け出てきたように美しく、愛らしい方でした。大人の言うことには決して逆らわず、いつもニコニコと微笑んでいらした。誰かが間違ったことを言っても、決して空気を壊すような指摘はしない。ただ、黙って微笑み返すのです」


私は、ハッとした。

それは、お母様が私に「こうなりなさい」と強要し続けていた、完璧な令嬢の姿そのものだった。お姉様たちのように、波風を立てず、ただ愛されるためだけに存在する女の子。


「私は当時、それが貴族の女性として最も正しい、幸せになれる生き方だと信じていました。殿下を立派な淑女に育て上げたと、自分自身の教育を誇りにすら思っていたのです」


先生の手が、ドレスの黒い布地をギュッと握りしめた。


「殿下が十六歳になられた年、他国の有力な大貴族との政略結婚が決まりました。お相手は、とても優しそうな顔をした、口の達者な大人でした。そして……婚姻の誓約の場で、分厚い契約書が交わされたのです」


王族や大貴族の結婚には、何十枚にも及ぶ複雑な契約書が付き物だという。

領地の権利や、お金の取り決めなど、難しい言葉がぎっしりと書かれた書類。


「殿下は、その契約書をろくに読みませんでした。周りの大人たちが用意してくれたものだから、自分を守ってくれるものだと、無邪気に信じ切っていたのです。私は殿下の隣に立っていましたが、殿下はただ美しく微笑んで、促されるままに、ご自分の名前を署名してしまいました」


先生の肩が、微かに震えていた。


「……その分厚い書類の中に、たった一文だけ、恐ろしい言葉が紛れ込んでいたのです」


「恐ろしい、言葉……?」


私が震える声で聞き返すと、先生はゆっくりとこちらに向き直った。


「『婚姻後、生誕した子に対する一切の教育権および後見権、ならびに殿下が持参した領地の管理権を、すべて夫側に一任する』……そういう一文です」


私は、息を呑んだ。

後見権。それはさっき、お父様が私を辺境から連れ戻すために教育評議会に突きつけた、絶対に逆らえない権利の名前だ。


「結婚から数年後。その一文を盾にして、夫の家は殿下から領地の富を完全に奪い取りました。そして、殿下が産んだばかりの赤ん坊を『この母親の教育環境は不適切だ』と難癖をつけ、母親の腕の中から強制的に奪い去ったのです。法的には、すべて夫の家にある『後見権』という正当な権利の行使でした」


私は、両手で口を覆った。

赤ん坊を奪われた王女様が、どれほど泣き叫んだか。想像しただけで、胸の奥がギュッと締め付けられるように痛くなった。


「殿下は泣きました。すがりついて、助けを求めました。ですが、誰も彼女を助けることはできなかった。契約書に、殿下ご自身の署名があったからです。……大人の冷酷な悪意の前では、涙も、美しい微笑みも、完璧なカーテシーも、何の意味も持たなかったのです」


先生は、自らを罰するように、言葉を絞り出した。


「殿下には、大人の嘘を見抜く目も、契約書の矛盾に気づく知識もなかった。不当な扱いを受けた時に、自分の声で戦うための『言葉』を持っていなかったのです」


先生の顔が、苦痛に歪む。


「私は彼女に、詩の暗唱や美しいお辞儀の仕方は教えましたが、自分自身を守る武器は何も与えなかった。……私自身が、殿下から牙を奪い、大人の悪意の前に丸腰で放り出してしまったのです」


だから、先生は王都を去ったのだ。

自分の教育が、教え子からすべてを奪ってしまったという後悔に押し潰されて。


そして辺境で、私塾を開いた。

間違えた答えに、容赦なく赤いインクでバツをつけるために。

生徒が泣いても、決して慰めずに「泣いた理由を説明しなさい」と突き放すために。


泣いても、現実は変わらない。涙は、契約書の文字を書き換えてはくれないからだ。

自分の頭で考え、矛盾を見抜き、言葉という武器で戦えなければ、いつか必ず大切なものを奪われる。王都の大人たちに、書類の上の言葉一つで、人生をめちゃくちゃにされてしまう。


私が王都へ報告書を送る時、あんなに細かく、面倒な署名と封蝋の手順を指示したのも。

特別試問の前に、私が泣き出すほど厳しく意地悪な模擬試験をしたのも。


すべては、私を二度と「大人の都合の良い道具」にさせないための、先生なりの必死の防御だったのだ。


「……公爵家からの申立ては、あの時と同じです」


先生は、机の上に置かれた黒い封筒を、憎むように睨みつけた。


「リゼット。あなたのお父様は、法と制度を盾にして、再びあなたのすべてを奪い、自分の手の中に閉じ込めようとしています」


お父様からの手紙。

『私はオルブライト公爵家の娘として、父上のご判断に従います』と書き写せと命じてきた、あの一文。

もしあの時、私が恐怖に負けてあの手紙を書き送っていたら、どうなっていた?


私は、ゾッとして全身の鳥肌が立った。


黙って笑う教育は、子供を差し出す教育になる。

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