第30話 魔女先生の正体
先生の青ざめた顔と、微かに震える唇。
私は、その姿から目が離せなかった。
王都の偉い審査員たちを前にしても、冷たい顔で『不合格です』と言い放ちそうな先生が、『後見権』という言葉を聞いただけで、まるで目に見えない怪物に首を絞められているように怯えている。
「マグダレーナ」
ギデオン様の低くて力強い声が、冷え切った執務室の空気を震わせた。
ギデオン様は、先生の震える肩を掴むことはせず、ただ真っ直ぐに彼女の目を見据えた。
「落ち着け。まだ公爵家が申立てをしたという通達が来ただけだ。命令書が発行されたわけではない」
「……わか、っています」
先生は、カチャリと音を立てて眼鏡のブリッジを押し上げ、深く息を吸い込んだ。
少しだけ顔色は戻ったけれど、その手はまだ、自分自身の冷たい指をきつく握りしめていた。
「教育評議会が、公爵家の言い分だけを聞いて一方的に命令書を出すことはあり得ない。必ず、現在リゼットを保護しているこちら側にも、事実関係の確認と反証の機会が与えられるはずだ」
ギデオン様は、机の上の書類を指でトントンと叩いた。
「奴らの申立ての根拠は『辺境の魔女が、幼い令嬢を不当に留め置き、洗脳している』という捏造だ。ならば、こちらは『マグダレーナ・クロウは公爵家の令嬢を教育し、後見するに足る、法的に正当で優秀な教育者である』と証明すればいい。そうすれば、評議会も安易には公爵家の味方はできない」
「経歴の、証明……」
先生が、ポツリと呟いた。
「そうだ。王都の保管庫に眠っているはずだろう? あんたの、本物の経歴書が。それを取り寄せて、反証書類に添付する」
ギデオン様の言葉に、先生は一瞬だけ、苦痛に顔を歪めた。
自分の過去を掘り起こすことが、酷く辛いことであるかのように。
でも、先生は私の方を一度だけチラリと見て、やがて静かに頷いた。
「……分かりました。すぐに手配します」
そう言って執務室を出て行く先生の背中は、いつもの真っ直ぐな姿勢ではなく、ほんの少しだけ小さく見えた。
私は、ギデオン様と先生の会話の意味がよく分からずに戸惑っていた。
本物の、経歴書?
マグダレーナ先生は、王都の貴族たちから「子供を泣かせる辺境の魔女」と呼ばれて忌み嫌われている。王立学術院の審査員長も、「魔女の入れ知恵」だと先生を馬鹿にしていた。
そんな先生に、教育評議会を黙らせるような立派な経歴なんて、本当にあるのだろうか。
それから数日後。
王都から、厳重に封をされた一通の公文書が辺境伯邸に届いた。
執務室に呼ばれた私は、ギデオン様の机の上に広げられたその書類を見て、言葉を失った。
羊皮紙の一番上には、王家の紋章が誇らしげに刻印されている。
そして、その下には、美しい飾り文字で一人の人物の経歴がびっしりと書き連ねられていた。
『マグダレーナ・クロウ』
私の先生の名前だった。
でも、そこに書かれている内容は、私の知っている「辺境の私塾の先生」とは全く違っていた。
「元・王立学院、主席教官……?」
私が震える声で読み上げると、ギデオン様が静かに頷いた。
「そうだ。マグダレーナは、ただの家庭教師なんかじゃない。王都で最も優秀な貴族の子弟が集まる王立学院で、かつて頂点に立っていた教育者だ。暗記や礼法ばかりを重んじる今の王都の教育制度の中で、本質的な学問を教えていた、唯一の存在だった」
私は、書類の続きを目で追った。
主席教官というだけでも信じられないのに、その下には、さらに信じられない役職が記されていた。
『王女エレオノーラ殿下、専属教育係』
「王女様の……教育係?」
私は、パチクリと目を瞬かせた。
王族の教育係。それは、王都の貴族たちの中でも、選ばれた一部のエリートしか就くことのできない、教育者としての最高峰の地位だ。
お母様が血眼になって手配した、あのラングレー先生でさえ、足元にも及ばないほどの輝かしい経歴。
マグダレーナ先生は、王都の教育制度を誰よりも深く知り尽くした、文字通りの天才だったのだ。
だから、私が王都の大講堂でどんな罠にかけられるかを完全に予測できた。
だから、あの面倒で細かすぎる「自筆署名と認証封蝋」の手順を、完璧に指示することができたのだ。
「この経歴書を教育評議会に提出すれば、奴らもマグダレーナを『ただの怪しい魔女』として扱うことはできなくなる。公爵家の『洗脳』という捏造も、説得力を失うはずだ」
ギデオン様は、書類を慎重に封筒に戻しながら言った。
私は、その黒い封筒を見つめながら、胸の奥で渦巻く疑問を抑えきれずにいた。
そんな凄い人が。
王都の貴族なら誰もがひれ伏すような、輝かしい経歴を持った最高の教育者が。
なぜ、今は王都を離れ、こんな北の果ての厳しい辺境で、ミナのような平民の子供や、私のような「出来の悪い令嬢」に、黒板の前に踏み台を置きながら、たった一人で授業をしているのだろう。
そして、王都の貴族たちは、なぜこれほどの経歴を持つ先生を「魔女」と呼んで忌み嫌っているのだろう。
『……未成年の、後見権……』
執務室で聞いた、先生のあの震える声が耳の奥に蘇る。
王女様の教育係だったという、華やかな過去。
それなのに、『後見権』という言葉を聞いただけで、息ができないほど怯えてしまった先生の姿。
先生の過去には、私の知らない、何か決定的に恐ろしい出来事が隠されている。
なぜその人が、辺境で子供を泣かせているのか。




