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「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の天才たちを黙らせる  作者: 他力本願寺


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第29話 公爵家の申立て

王都での長くて恐ろしい戦いを終えて、私たちは北方の辺境へ帰ってきた。


馬車から降りた瞬間、頬を撫でた冷たい風に、私は大きく深呼吸をした。

王都の香水や埃の匂いが混ざった息苦しい空気とは違う、雪解け水と土の匂いがする、澄んだ辺境の風。


「お帰りなさいませ、旦那様。マグダレーナ様、リゼット様」


屋敷の玄関では、マルタさんがいつものように淡々とした顔で出迎えてくれた。

食堂に入ると、王都の別邸で飲んだ味のしない金色のスープではなく、大きなお肉と根菜がゴロゴロ入った温かいシチューの匂いが漂っていた。

私は、その匂いを嗅いだ途端、急に肩の力が抜けて、泣きそうになるくらいホッとしてしまった。


翌日からは、またいつもの日常が戻ってきた。

ミナに「雪道の知識のおかげで、王都の天才に勝てたよ」と報告すると、彼女は目を丸くして喜んでくれた。

マグダレーナ先生の授業は、王都で大勝利を収めたからといって少しも甘くならなかった。相変わらず私の答案には容赦なく赤いインクでバツがつけられ、「油断して計算式を省かないように」と冷たく叱られた。


でも、それが嬉しかった。

私はもう、あの息の詰まるお屋敷の五女じゃない。この温かい辺境で、間違えても笑われない教室で、自分の頭で考えることを許された一人の生徒なのだ。


(ずっと、この毎日が続けばいいのに)


そんな私の願いは、数日後の午後、突然の来訪者によって呆気なく打ち砕かれた。


「旦那様! 王都から急ぎの使者が参りました!」


ギデオン様の部下が、血相を変えて執務室に駆け込んできた。

ちょうどギデオン様に領地の帳簿を見せてもらっていた私は、部下のただならぬ様子にビクッと肩を跳ねさせた。


「王立学術院からか?」


「いえ、それが……『王都教育評議会』からです」


その言葉を聞いた瞬間、ギデオン様の太い眉がピクリと動き、顔からスッと表情が消えた。

部下から差し出された重々しい黒い封筒を受け取ると、ギデオン様はペーパーナイフで乱暴に封を切り、中に入っていた分厚い羊皮紙に目を通した。


「……チッ」


ギデオン様は、舌打ちをして書類を机の上に放り投げた。

いつも冷静な辺境伯様が、あんなふうにあからさまに苛立ちを見せるなんて珍しい。私は不安になって、隣の部屋で授業の準備をしていたマグダレーナ先生を呼びに行った。


「どうしたのですか、ギデオン閣下。ずいぶんと物騒な音が聞こえましたが」


静かに執務室に入ってきた先生に、ギデオン様は苦虫を噛み潰したような顔で書類を顎でしゃくった。


「王都教育評議会からの通達だ。オルブライト公爵家が、リゼットの即時帰還を求める正式な申立てを行った」


「えっ……?」


私は、思わず声を上げてしまった。


「ど、どうしてですか? 私は王都で、お父様たちの大人のルールでも、きちんと勝ったのに。私の報告書は、私のものだと認められたのに!」


私の訴えに、ギデオン様は痛ましそうな目で私を見た。


「リゼット。お前が勝って、その知力の価値を公式に証明してしまったからこそ、奴らは動いたんだ。あんな恐ろしい武器を持つ子供を、辺境に置いておくわけにはいかないからな」


「でも、帰りたくありません! 私は、ここで……」


「お前の気持ちなど、奴らには関係ない。そして、この国が定めた『制度』にもな」


ギデオン様は、机の上の書類を指で強く叩いた。


「申立ての根拠は、貴族法に基づく『親権』および『後見権』の行使だ。未成年の公爵家令嬢の教育権と後見権は、実家の当主にある。親が『娘の教育環境として不適切だと判断したため、実家に連れ戻す』と主張すれば、評議会はそれを無下に却下することはできない」


私は、血の気が引くのを感じた。

王都での試問は、知恵と論理の戦いだった。矛盾を見つければ、勝つことができた。

でも、今回は違う。

『親だから、子供を取り戻す』という、この国で一番強くて、絶対に逆らえない大人のルール。


お父様は、私のことなんて少しも愛していないのに。ただ、便利な道具として利用するために、親という「権利」を振りかざして私を奪いに来たのだ。


(どうしよう……)


私は、震える手でドレスの裾を握りしめ、隣に立つマグダレーナ先生を見上げた。

先生なら、きっとまた「この制度にはこういう矛盾があります」と冷静に論破して、私を守る方法を教えてくれるはずだ。


「先生……」


すがるように声をかけた私は、先生の顔を見て、息を呑んで固まった。


先生の顔からは、さっと血の気が引き、真っ青になっていた。

いつも氷のように冷たく、王都の大講堂で審査員たちに詰め寄られた時でさえ微動だにしなかったあの先生が。

銀縁の眼鏡の奥の目が、過去の恐ろしい亡霊でも見るように見開かれ、強く結んだ唇が微かに震えていたのだ。


「……マグダレーナ?」


ギデオン様も、先生のただならぬ様子に気づいて低く声をかけた。


「……公爵家は、教育評議会に圧力をかけ、強制力のある『命令書』を取り付ける気です。未成年の、後見権……」


先生の声は、かすれて、震えていた。

私は、かつてないほどの恐怖を感じた。

あの怖い先生が、怯えている。

王立学術院の審査員すら恐れなかった先生が、『後見権』という言葉を聞いただけで、これほどまでに動揺している。


机の上に置かれた、黒い封蝋の押された分厚い封筒。

そこには、私の知恵や論理ではどうにもならない、圧倒的で暴力的な大人の力が詰まっているようだった。


これは、ただの手紙ではない。

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