第28話 取り戻しに動く家族
特別試問が終わったその日の夜、私はベッドに入るなり、泥のように深く眠ってしまった。
夢すら見ないくらい熟睡して、翌朝目を覚ますと、窓の外から王都の明るい日差しが差し込んでいた。
「おはよう、リゼット。よく眠れたか」
食堂へ行くと、ギデオン様が温かいお茶を飲みながら、いつになく穏やかな顔で私を迎えてくれた。
「はい。……あの、私、本当に勝ったんですよね?」
「ああ、もちろんだ。王立学術院の審査員どもが、全員揃って言葉を失っていたからな。お前の書いた報告書は、誰にも文句のつけようがない、本物の公式文書として歴史に残る」
ギデオン様の大きな手が、私の頭をポンポンと優しく撫でた。
私は、昨日の大講堂での出来事を思い出し、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
王都の天才にも、私を捨てた家族にも、もう「いらない子供だ」なんて笑わせなかった。私は自分の言葉で、自分の正しさを証明したのだ。
「さあ、王都での用事はすべて終わった。荷造りを急ごう。お前も、早くマルタの作ったスープが飲みたいだろう?」
「はい!」
私は大きく頷いた。
この豪華で綺麗な王都の別邸よりも、隙間風は吹くけれど暖炉の火が温かい、あの辺境のお屋敷に早く帰りたかった。ミナに「雪道の知識で勝てたよ」と報告したかった。
私は自分の部屋に戻り、ウキウキとした気分でトランクに荷物を詰め始めた。
しかし、その穏やかな空気は、お昼前には完全に消え去ってしまった。
王都の情報を集めていたギデオン様の部下たちが、血相を変えて次々と別邸へ駆け込んできたのだ。
屋敷の中を、大人たちが足早に歩き回る。
私は不安になり、そっと廊下に出て、少しだけ開いていた執務室のドアの隙間から中を覗き込んだ。
「……やはり、動きましたか」
マグダレーナ先生の、氷のように冷たい声が聞こえた。
「ああ。学術院の裁定が下った直後から、オルブライト公爵が王都の各機関に手を回している。どうやら本気で、リゼットを公爵家に連れ戻すつもりのようだ」
ギデオン様の低い声には、はっきりとした怒りが混じっていた。
「今更どの面下げて親ずらをする気だ。あいつらは、リゼットを『教育不能』と見捨てて、俺のところに押し付けたんだぞ」
「彼らにとって、リゼットの知力は『家の恥』から『利用価値のある政治的な武器』に変わったのです。敵対する可能性のある辺境伯の元に置いておくわけにはいかないのでしょう」
「だが、あの報告書はリゼット本人の意思で書かれたものだと学術院が認めた。無理やり連れ去ることなどできまい」
「ええ。だからこそ、彼らは『情』や『力』ではなく、『制度』を使って奪いに来ます」
先生は、机の上に置かれた王都の貴族名鑑を指先でトントンと叩いた。
「未成年貴族の教育と保護を管轄する『王都教育評議会』。あそこを動かして、実家が持つ絶対的な『後見権』を行使する気です。名目はそうですね……『辺境の魔女が、幼い令嬢を不当に留め置き、洗脳している疑いがある』とでもするつもりでしょう」
『洗脳』『後見権』『教育評議会』。
聞き慣れない、けれどひどく重くて恐ろしい言葉の響きに、私はドアの陰で息を呑んだ。
王都の大人たちの戦いは、まだ終わっていなかったのだ。私が論理で勝っても、彼らは自分たちが作ったルールの力を使って、力ずくで私を引き戻そうとしている。
足元から、またあの王都の冷たい空気が這い上がってくるような気がして、私はギュッと自分の腕を抱きしめた。
――その頃、王都の中心にあるオルブライト公爵邸。
重厚な調度品で統一された書斎には、公爵エドガーと、その妻セレスティアの姿があった。
「あなた……リゼットは、あの子はどうなるのですか」
セレスティアは、普段の完璧な微笑みを忘れ、手にした扇を小刻みに震わせながら夫に詰め寄っていた。
大講堂での特別試問。セレスティアはそこで、自分が信じてきた世界が根底から崩れ去るのを見た。
女の子は、ただ黙って、美しく笑っていれば守られる。正しさなど口にしてはいけない。そう教えてきたのに、辺境から戻ってきた五女は、一切の媚びを売らず、真っ向から大人の権威を論破してのけたのだ。
「あの子は、大勢の審査員を前に、少しも怯えずに……いえ、あんな知恵を身につけてしまっては、王都の社交界では到底生きていけません。早く呼び戻して、もう一度正しい教育をやり直さなければ……」
娘への歪んだ愛情と、自分が間違っていたことを認めたくないという恐怖が入り混じり、セレスティアの言葉は支離滅裂になっていた。
「落ち着きなさい、セレスティア」
エドガーは、苛立たしげに妻をたしなめると、机の上に広げた書類に再びペンを走らせた。
彼の顔には、妻のような混乱も、捨てた娘に対する父親としての罪悪感も一切なかった。あるのは、公爵家当主としての氷のように冷徹な計算だけだった。
「リゼットの価値を見誤ったのは私の失態だ。あの異常な観察眼と論理的思考力……あれを辺境の野蛮人や、あの偏屈なクロウ女史の元に放置しておけば、いずれ公爵家、いや王都の中枢を脅かす猛毒になる」
エドガーの脳裏に、大講堂で堂々と宣言した娘の姿が蘇る。
あの子供はもう、親の顔色を窺って泣く無力な存在ではない。現に、財務局の役人を一人、完璧な手続きで失脚させてみせたのだ。
敵に回せば恐ろしい。だが、手元に置いて公爵家の管理下に置けば、これ以上ない強力な手駒となる。
「あの子はまだ八歳だ。オルブライト公爵家の娘である以上、その身柄の決定権はこちらにある」
エドガーは、書き上げた書類に公爵家の重々しい封蝋を押し当てた。
宛先は『王都教育評議会』。
「辺境伯がどれほど娘を庇おうと、法と制度の前では無力だ。クロウ女史による悪質な洗脳を告発し、評議会の『命令書』をもって、直ちにリゼットを連れ戻す」
エドガーは冷酷な目で、封蝋の刻印を見下ろした。
捨てた手が、今度は法を盾に掴みに来る。




