第22話 第一試問・礼法
王立学術院の大講堂は、すり鉢状になったすさまじく広い部屋だった。
一番底にある壇上には、ポツンと一つの椅子が置かれている。
それを取り囲むように、階段状になった高い席には、何十人もの白髪の審査員たちがずらりと並んで私を見下ろしていた。さらにその後ろの傍聴席には、噂を聞きつけて集まった王都の貴族たちがひしめき合い、ヒソヒソという扇の擦れる音が雨音のように降り注いでくる。
(怖い……)
私は、用意された小さな椅子に座り、ギュッと両手を握りしめた。
震えが止まらない。今すぐ立ち上がって、ギデオン様と先生が待つ控室に逃げ帰りたかった。
でも、昨日の夜、先生が震える手を隠して教えてくれたことを思い出す。
『本番では、震えても声を出す』
私は、何度も深く息を吸い込み、冷たくなった指先に力を込めた。
「それでは、ただいまよりリゼット・オルブライト嬢の特別試問を開始する。第一の科目は『礼法』である」
中央に座る審査員長が、重々しい声で宣言した。
「リゼット嬢が本当に優れた知性を持つならば、当然、貴族の基礎教養である礼法も完璧に修めているはずだ。そこで、今回は特別に、王都の華と謳われる公爵家長女、アデライード・オルブライト嬢を相手役として招いた」
傍聴席がわっと沸いた。
お姉様だ。お母様の自慢の娘であり、王都で一番美しい礼法を身につけているお姉様。
「ごきげんよう、皆様」
アデライードお姉様が、優雅な足取りで壇上へ歩み出てきた。
その姿は、息を呑むほど美しかった。歩くたびにドレスの裾がふわりと揺れるが、少しも乱れがない。背筋はピンと伸び、その微笑みは一枚の絵画のように完璧だった。
「課題は『二人の伯爵夫人と、一人の新興の男爵夫人を招いた茶会の席順』である。まずはアデライード嬢、模範となる配置をお願いしたい」
「はい。承知いたしました」
お姉様は、壇上に用意された丸いテーブルと四つの椅子、そしてティーカップのセットに向かった。
流れるような動きで、椅子を配置していく。
カチャリ、と陶器の擦れる音が、心地よい音楽のように響く。カップの取っ手の角度、ナプキンの位置。そのすべてが、定規で測ったかのように美しく、無駄がなかった。
ほんの数分で、完璧な茶会の席が完成した。
「お見事だ」「さすがは公爵家の長女」
審査員席からも、傍聴席からも、感嘆のため息が漏れた。
「では、リゼット嬢。今の配置を見て、何か気づいたことがあれば述べなさい」
審査員長に促され、私は席を立ってテーブルに近づいた。
圧倒的だった。
「美しさ」という定規で測れば、私はお姉様には絶対に勝てない。私のお辞儀はいつも少し傾いているし、歩幅も合わない。王都にいた頃から、ずっとそうやって「出来が悪い」と笑われてきたのだ。
(やっぱり、私には無理だわ……)
そう思って、俯きかけた時だった。
私は、あの下級役人が辺境伯様のお屋敷に来た日のことを思い出した。
私が座らされた、隙間風の吹く末席。手の届かない位置に置かれたティーカップ。
先生はあの時、私に何と言った?
『礼法とは、きれいに座るためにあるのではありません。相手が自分をどの位置に置こうとしているのか、その立ち位置を測るための定規です』
私はハッとして、もう一度、お姉様の並べた椅子をじっと見つめた。
美しさに誤魔化されてはいけない。この席順が、そこに座る人たちにとって『どんな意味』を持つのかを考えるんだ。
テーブルの奥、一番良い上座には主催者の席。その両隣に、二人の伯爵夫人の席。
そして、新興の男爵夫人の席は、テーブルの手前側に置かれている。
(……あっ)
身分の順で言えば、一見すると正しい配置に見える。
でも、違った。
この大講堂の壇上を実際の部屋だと仮定すると、男爵夫人の席の後ろには『入り口の扉』があることになる。
そして、その椅子は、他の三つの椅子よりもほんの少しだけ座面が低く作られたものを選んで配置されていた。
「どうしました、リゼット。やはり、辺境の泥の中で礼法を忘れてしまったのかしら?」
アデライードお姉様が、扇で口元を隠しながら、優しく、けれど明確な見下しの色を浮かべて私に言った。
私は、ギュッと拳を握り、震える足に力を入れてお姉様を見返した。
「……この席順は、間違っています」
私の声が、大講堂に響いた。
途端に、傍聴席から「なんだと?」「あの完璧な配置のどこが間違っているというのだ」と、怒りを含んだざわめきが起こった。
「間違っている? ふふ、面白いことを言うのね。これは王都で何百年も続く、伝統的で最も美しい身分順の配置よ。あなたが理解できないだけでしょう」
「身分の順序は合っています。でも……」
私は、震えそうになる声を必死に押し殺し、真っ直ぐに審査員席を見上げた。
「この席順では、男爵夫人が座る席のすぐ後ろが扉になります。冬ならば冷たい隙間風が当たり続ける場所です。さらに、椅子の高さが違うせいで、両隣の伯爵夫人から常に見下ろされる角度になっています。……これは、新しく貴族になった男爵夫人を孤立させ、わざと惨めな思いをさせるための、意地悪な配置です!」
私の言葉に、大講堂がシンと静まり返った。
図星を突かれたお姉様の顔から、一瞬だけ完璧な微笑みが剥がれ落ちた。
「な、何を馬鹿なことを……! 私はただ、美しく、伝統に則って……」
「美しく見せかけて、相手を踏みつけるための席順です! これが公爵家の『和』を守るための礼法だというのなら、そんなもの、ただの意地悪です!」
私は、息を切らして叫んだ。
本当は、もっと先生みたいに、理路整然と、風の向きや視線の角度の計算式を使って説明したかった。
でも、恐怖と焦りで、頭の中の言葉がうまくまとまらなかった。ただの子供の言い掛かりのように聞こえてしまったかもしれない。
審査員たちが、ゴニョゴニョと顔を寄せて協議を始めた。
「……確かに、リゼット嬢の指摘した通り、新興貴族を貶める際によく使われる陰湿な配置ではある」
「しかし、アデライード嬢の所作の美しさと、伝統的な身分順の解釈もまた見事だ。リゼット嬢の説明は少々感情的で、言葉足らずだな」
長い協議の結果、審査員長が重い口を開いた。
「第一試問、礼法。アデライード嬢の完璧な所作を評価しつつ、リゼット嬢の人間関係の力学を見抜く視点も一理あると認める。よって、この勝負は『引き分け』とする!」
その宣言に、傍聴席の大人たちは不満そうにざわめいた。
お姉様は、悔しそうに扇を握りしめ、私をキッと睨みつけてから壇上を降りていった。
私は、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。
完全に勝つことはできなかった。言葉が足りなかったせいで、完璧に論破することはできなかった。
でも、私は負けなかった。
王都の大人たちの悪意に潰されず、ちゃんと自分の声で、彼らの嘘を暴いたのだ。
美しさでは敵わない。でも、見えてしまった。




