第21話 試問前夜の模擬試験
王都で私たちが滞在することになったのは、レーヴェン辺境伯家が所有する別邸だった。
辺境の黒い石造りの丈夫なお屋敷とは違い、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、天井からはガラスの飾りがついたシャンデリアがぶら下がっている。
豪華で、暖かくて、とても綺麗な場所。
でも、私はどうしても落ち着くことができず、部屋の隅の椅子に小さく丸まって座っていた。
「リゼット様、お夕食をお持ちしましたよ」
王都で雇われたらしいメイドさんが、銀のお盆に乗せた料理を運んできてくれた。
お皿の中には、透き通った金色のスープが入っていた。王都の貴族が好んで飲む、上品な味のスープだ。
私はスプーンを手に取って一口飲んでみたけれど、味がまったく分からなかった。辺境でマルタさんが作ってくれる、お肉と野菜がゴロゴロ入った温かいシチューの匂いが、無性に恋しかった。
昼間の出来事が、頭の中をぐるぐると回って離れない。
私を汚いものでも見るように見下ろした、お母様の目。
「公爵家の恥」と扇の陰で笑っていた、お姉様たち。
そして、真っ白な服を着た、神童ユリウスのキラキラとした笑顔。
『どんな奇抜で面白いアイデアを見せてくれるのか、楽しみにしているよ』
悪意のない、完璧な王都の天才の姿。
彼を囲んでいた大人たちの、私を嘲笑う顔。
明日、私はあの大勢の大人たちが待ち構える大講堂の壇上に、一人で立たなければならないのだ。
もし、言葉に詰まったら?
もし、私の見つけた数字の嘘が、王都の賢い大人たちにとっては「ただの子供の勘違い」だと言われてしまったら?
足の指先から、氷水に浸かったように冷たくなっていくのが分かった。
「リゼット。執務室へ来なさい」
突然、開いたままの扉からマグダレーナ先生の声がした。
私はビクッと肩を跳ねさせ、慌ててスプーンを置いて立ち上がった。
執務室に入ると、そこには辺境伯様もいて、難しい顔で壁際に寄りかかっていた。
先生は、部屋の中央にある大きな肘掛け椅子に、深く腰を下ろしていた。いつも教卓の後ろで真っ直ぐに立っている先生が、そんなふうにふんぞり返って座っているのを初めて見た。
「今から、明日の特別試問のための『模擬試験』を行います」
先生は、手元にある数枚の書類をパラパラとめくりながら、冷ややかな声で言った。
「私が審査員役を務めます。あなたはそこに立ち、私の質問に答えなさい」
「……はい」
私は、部屋の中央、先生の目の前に立った。
先生は、銀縁の眼鏡の奥から、私をじろりと舐め回すように見た。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
厳しいけれど、間違えた理由を待ってくれる辺境の「先生」の目ではない。相手の失敗を粗探しし、見下し、冷笑する、王都の大人たちの目だった。お母様や、ラングレー先生と全く同じ、人を品定めする冷酷な視線。
「リゼット・オルブライト。あなたが辺境から持ってきたという浅知恵を、ここで披露してもらいましょうか」
先生の口調まで、王都の貴族そのものになっていた。
私は息を呑み、ギュッと両手を握りしめた。ただの練習だ。先生がわざとやっているんだ。頭では分かっているのに、心臓が早鐘のように打ち始めた。
「あなたの提出した報告書には、エルム村の労働力に異常があると書かれています。しかし、王都の財務局が算出した数字は、王国法に則った完璧なものです。ただの子供であるあなたが、どのような根拠で国家の予算計画を否定するのですか?」
先生の言葉が、鋭い矢のように飛んでくる。
答えは分かっている。計画書の数字と、古い地誌の記録、そしてお金の流れがゴルド商会に繋がっていることを説明すればいい。私が自分で見つけた証拠だ。
「えっと……それは、エルム村の、戸籍の記録と……」
「声が小さい。大講堂の審査員席まで、そのようなか細い声が届くと思っているのですか」
先生が、書類を机にピシャリと叩きつけた。
ビクリと私の体が震える。
「それに、答えになっていません。私は『どのような根拠で』と聞いています。もたもたしている暇はありませんよ。後ろには、あなたよりも優秀な学者の先生方が、試問の順番を待っているのですからね」
急かされる。見下される。
昼間のお姉様たちの笑い声が、耳の奥でフラッシュバックした。
『本当に、みっともないわ』
『公爵家の恥だわ』
「違うの、エルム村の、過去の記録に……」
「まだ分からないのですか。あなたが辺境の泥の中で拾ったような言い訳など、誰も聞きたくはないのです。答えられないのなら、すぐに壇上から降りなさい。公爵家の令嬢ともあろう者が、恥を知りなさい」
恥を知りなさい。
その言葉が、私の喉を完全に塞いでしまった。
空気を壊す、ダメな子供。みんなを不機嫌にさせる、いらない五女。
頭が真っ白になり、息がヒュッと鳴った。
答えを言わなきゃいけないのに、声の出し方を忘れてしまったように、喉が引きつって動かない。
視界がぐにゃりと歪み、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
私はまた、泣いてしまった。
お父様の書斎で怯えていた時と同じ。何も変わっていない。王都の大人たちの冷たい目にさらされると、私はただ震えて泣くことしかできないのだ。
「……不合格です」
先生の、氷のように冷たい声が響いた。
「本番でそのように黙り込み、涙を見せれば、彼らは喜んであなたを切り捨てるでしょう。『やはり大人が書かせた偽物だ』と嘲笑い、あなたを追放して終わりです」
私は両手で顔を覆い、しゃくりあげた。
怖い。明日、本当にこうなってしまったらどうしよう。私には無理だ。王都の天才たちを黙らせるなんて、絶対にできない。
「マグダレーナ。やりすぎだ」
ずっと壁際で黙っていたギデオン様が、低い声で割って入った。
ギデオン様は、ゆっくりと先生の横に歩み寄り、その手元を見下ろした。
「それに……あんた、手が震えているぞ」
その言葉に、私はハッとして涙で濡れた顔を上げた。
先生の手元を見る。
机の上に置かれた書類を押さえている、先生の細い指先。その指が、微かに、けれどはっきりと、小刻みに震えていた。
先生は、すぐに書類から手を離し、膝の上で両手を強く組んだ。
「……窓からの風が、少し冷たいだけです」
先生は冷たく否定した。
でも、この部屋の窓は厚いカーテンでしっかりと閉められていて、風なんてどこからも入ってきていない。
私は、息を止めた。
先生の手が、震えている。
私の手紙を平然と燃やし、容赦なく赤いインクでバツをつける、あの絶対に揺るがないと思っていた怖い先生が。
(先生も……王都が、怖いの?)
ふと、先生の過去を思い出した。
王立学院の主席教官だった先生が、どうしてこんな辺境にいるのか。先生も昔、この王都で、理不尽に大切なものを奪われたことがあるのかもしれない。
それなのに、先生は今、あの冷たい王都の貴族のふりをして、私を徹底的にいじめた。
私が、明日、大講堂で大人たちの悪意に潰されてしまわないように。
本番の前に、あえて一番怖い思いをさせて、私に立ち向かう準備をさせるために。
先生は、自分が震えるほど無理をして、王都の冷酷な審査員を演じてくれたのだ。
『泣いた理由を説明しなさい』
出会った日に言われた言葉が、胸に蘇る。
泣いている暇なんてない。先生がこんなに震えながら、私のために戦う準備をしてくれているのに、私がここで逃げてどうするの。
私は、両手で頬を強く叩き、涙を拭った。
「先生」
私の声は、まだ少し鼻声だったけれど、さっきまでの震えは消えていた。
「もう一度、お願いします。次は、絶対に最後まで答えます」
先生は、組んでいた両手をゆっくりと解き、眼鏡の奥から私を見つめた。
その目には、もう先ほどの貴族のような冷酷な光はなかった。いつもの、厳しいけれど、私の答えを待ってくれる、私の先生の目だった。
「……よろしい」
先生は、再び書類を手に取った。
怖い。明日、大講堂に立つのは絶対に怖い。
でも、もう怯えて黙り込んだりはしない。
本番では、震えても声を出す。




