第17話 署名の手順
王立学術院。
それは王都の中心にあり、国中のあらゆる学問や、領地開発などの重要な計画の正当性を審査する場所だ。
私が書き上げた『辺境水路再編計画の矛盾に関する報告書』は、最終的にそこに提出されることになった。
計画書の数字と、古い地誌の記録、そしてお金の流れ。
それらを自分の言葉で、大人たちにも分かるような文章にするのは、想像以上に過酷な作業だった。
「ここの表現が感情的です」「これでは推測の域を出ません。数字を根拠にしなさい」
マグダレーナ先生の容赦ない赤いインクが、何度も何度も私の原稿を横切った。直しては突き返され、また書き直す。腕は痛くなり、頭の中は数字と文字でパンパンになったけれど、私は不思議と投げ出す気にはならなかった。
自分の見つけた「嘘」を、絶対に証明してみせる。
その意地だけでペンを握り続け、数日後、ようやく一つの束にまとめ上げたのだ。
「完成しました、先生。辺境伯様」
私が提出した最終的な報告書を読み終え、ギデオン辺境伯様は深く、力強く頷いた。
「見事だ。王都の財務局の役人と、ゴルド商会が裏で結託してエルム村を潰そうとしている構造が、誰の目にも明らかになるよう論理的に書かれている。俺の直感だけでは、ここまで完璧に暴くことは不可能だった。……よくやったな、リゼット」
無愛想な辺境伯様の、心からの褒め言葉。
私は嬉しくて、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「では、これをすぐに王立学術院へ送る手配をしよう」
「お待ちください、ギデオン閣下」
辺境伯様が報告書を手に取ろうとした瞬間、先生が静かに遮った。
「このまま送れば、王都の大人たちは確実にこの報告書を握り潰します。あるいは『辺境伯が、字の書ける子供の名前を騙って書かせた偽造文書だ』と言いがかりをつけ、内容を議論する前に却下するでしょう」
先生は、冷たい目で私と報告書を見下ろした。
「相手は、自分たちの利益を邪魔される大人たちです。ましてや、公爵家から見捨てられた八歳の子供が書いたただの紙切れなど、読まずに暖炉に放り込んで終わりです」
暖炉に放り込む。
その言葉を聞いて、私はビクッと肩を震わせた。あの夜、私がお父様へ書いた手紙が、先生の手で細かく破られ、炎の中に投げ入れられた光景がフラッシュバックする。
まだ、先生のことを完全に許したわけじゃない。あの冷酷な横顔が脳裏をよぎり、私はギュッとドレスの裾を握った。
「では、どうするのだ。このまま泣き寝入りしろと言うのか」
辺境伯様が眉をひそめると、先生は教卓の引き出しを開けた。
「この報告書を、『誰にも奪えない、リゼット・オルブライト本人の正式な功績』として学術院に認めさせるための、完全な手続きを行います」
先生は、私の前に新しいインク壺と、深い赤色の蝋、そして小さな金属の印章を置いた。
「リゼット。報告書のすべてのページの右下に、あなたの自筆でフルネームの署名をしなさい」
「えっ……す、すべてのページにですか?」
私は思わず聞き返した。報告書は何枚もある。
「そうです。一枚でも欠ければ、彼らはそのページを都合の良い別の紙にすり替えます。そして最後のページには、あなたの血筋を証明するサインと共に、この赤い蝋を垂らして認証封蝋を押しなさい。さらに、ギデオン閣下」
「俺か」
「はい。閣下には『証人添状』を書いていただきます。この報告書が間違いなくリゼット・オルブライト本人の手によって書かれたものであり、北方の領主であるあなたがその作成過程に立ち会ったという誓約書です」
私は、驚いて先生を見た。
たかが報告書を学術院に送るだけなのに、まるで国同士の重要な条約を結ぶかのような、細かすぎる手続きだ。
私が一生懸命書いたのだから、内容が正しければ、王立学術院の賢い人たちは分かってくれるんじゃないの?
「先生……そこまでしなくても、数字の矛盾は明らかです。ちゃんと読んでもらえれば、きっと……」
「『ちゃんと読んでもらえる』という甘い期待は、今すぐ捨てなさい」
先生の強い言葉に、私はピタリと口をつぐんだ。
「王都の大人たちは、自分たちより立場の弱い者の言葉など、最初からないものとして扱います。あなたが公爵家で経験したことと同じです。正しいことを言っても、手順や作法が一つでも欠けていれば、彼らはそれを理由にあなたの存在ごと切り捨てます」
先生の銀縁の眼鏡が、冷たく光った。
「だからこそ、隙を見せてはならない。あなたが考え、あなたが導き出した答えです。他の誰にも、王都の大人たちにも、決してその功績を横取りさせてはいけない」
その言葉には、普段の冷ややかな響きの中に、なぜか凄みのようなものが混じっていた。
まるで、過去に誰かの功績や大切なものが、書類の手続きのせいで理不尽に奪われるのを見たことがあるかのような。痛切な響きだった。
私は、先生のそのただならぬ空気に押され、黙ってペンを握った。
一枚、また一枚と、自分の名前を書いていく。
文字が歪まないように、丁寧に、慎重に。手が痛くなるほどの作業だった。でも、先生はじっと私の手元を見つめ、私が署名を終えるたびに、確実に確認をしていった。
すべてのページに署名を終え、最後に赤い蝋を火で炙り、ぽたぽたと紙の上に垂らす。
熱い蝋の上に金属の印章を押し当てると、そこにくっきりと私の名前の印が刻まれた。
「……終わりました」
「よろしい」
先生は、私の署名と封蝋が施された報告書と、辺境伯様が書いた証人添状を一緒に分厚い封筒に入れ、厳重に封をした。
これで、この報告書はただの紙切れではなく、『リゼット・オルブライトが作成した公式な文書』になったのだ。
辺境伯様が、すぐに早馬の使者を呼んで、王都へ向けて書類を託した。
使者が雪道を駆けていくのを見送りながら、私は自分の少し赤くなった指先を見つめた。
こんなにも厳重で、面倒な手続き。
先生は、ただ私を厳しく指導したいからやらせたのだろうか。
それとも、王都の大人たちが私の答えを奪ったり、握り潰したりできないように、私を……私の名前を、守ろうとしてくれたのだろうか。
お父様への手紙を燃やされた時の、理不尽な怒り。
私は先生を憎いと思った。でも、あの時も、先生は今日のように、ただの手紙が恐ろしい罠に変わることを防ごうとしていたのかもしれない。
少しずつ、私の中で先生への見方が変わり始めていた。
私は、黒いドレスを着た先生の背中を、そっと見上げた。
先生は、こうなることを最初から知っていたのかもしれない。




