第14話 水路の問題
手紙を暖炉の火に投げ入れられたあの日から、私と先生の間の空気は、外の雪よりも冷たく凍りついていた。
「おはようございます、先生」
「おはようございます、リゼット」
朝の挨拶はする。授業の課題も、文句を言わずにこなす。
でも、それだけだ。
私は、あの理不尽に手紙を破られた時の怒りと悲しみを忘れてはいなかった。先生は私の心を守ってくれる人じゃなかった。自分の思い通りにならないものを、問答無用で焼き捨てる恐ろしい魔女だったのだ。
だから私は、もう先生に褒められようとするのをやめた。余計なことは喋らず、ただ言われたことだけを機械のようにこなすことに決めたのだ。
そんな冷え切った空気の流れる教室に、珍しいお客がやってきた。
辺境伯のギデオン様だった。
「……授業の邪魔をしてすまない」
いつも通り無愛想な声で言いながら、辺境伯様は先生の教卓の上に、分厚い羊皮紙の束をどさりと置いた。
「王都の財務局から、春に向けた『辺境水路再編計画書』が届いた。予算の割り振りから各村の労働力の負担まで、事細かに指定されている」
「それはご苦労なことです。彼らがあの暖かい王都の机から離れて、この凍える土地の泥を掘りに来るとでも言うのでしょうか」
先生は、相変わらずの冷ややかな声で計画書を手に取った。
「当然、金と口だけ出して、泥を掘るのはこちらの領民だ」
辺境伯様は腕を組み、難しい顔で計画書を睨みつけた。
「役人の持ってきた書類だ。計算自体は完璧に合っている。だが……何かが引っかかる。俺は学がないので言葉にはできないが、この数字の並びには、どうにも妙な『臭い』がするんだ」
実務家として辺境を治めてきた辺境伯様の直感。
先生は計画書のページをパラパラと捲り、少しだけ目を細めた。そして、その分厚い書類の束を、ポイと私の机の上に投げた。
「読んでみなさい、リゼット」
私はビクッと肩を揺らした。
「私が、ですか?」
「そうです。あなたが王都で身につけた『文字を読む力』と、ここで学んだ『帳簿を見る目』を使いなさい」
先生の顔は冷たく、一切の感情を読み取ることができない。
(また、私が間違えたら赤いインクでバツをつける気なんだわ)
心の中でそう毒づきながらも、私は書類の束を引き寄せた。
先生のことは嫌いだ。私の手紙を理不尽に燃やしたあの冷酷さを、私は絶対に許さない。
でも。
先生が教えてくれた『知識』と『武器』が本物であることだけは、認めざるを得なかった。
お母様の手紙の嘘を暴いた古典の知識。厨房の卵の数から『人の事情』を見る帳簿の読み方。相手の悪意を測る定規としての礼法。
先生が私に叩き込んだそれらの武器は、どれも私を確実に強くしてくれた。
(先生のことは信じない。でも、この『目』の力は信じる)
私は小さく息を吸い込み、感情を頭の隅に追いやって、冷たい数字の列に向き合った。
計画書には、辺境にある五つの村を繋ぐ、新しい農業用水路の建設計画が書かれていた。
春の雪解けに合わせて工事を始め、秋の収穫までに終わらせるという大規模なものだ。
そこには、王都から支給される予算の額と、五つの村がそれぞれ負担しなければならない「石材の数」や「人足(働く人)の人数」が、細かく表になって記されていた。
私は、ペンを持って数字を追いかけた。
足し算、引き算、掛け算。
すべての村の負担を足し合わせると、水路を建設するために必要な総数に、一桁の狂いもなくぴったりと一致する。王都の役人が作っただけあって、計算式としてはあまりにも完璧だった。
(……おかしいところなんて、何もないじゃない)
と思いかけた時。
私の頭の奥で、ミナの声が蘇った。
『雪が降る前に運ぶのが、辺境の絶対のルールなの』
『計算上の最短距離が、実際の最短時間とは限らない』
そうだ。紙の上の数字と、現実の物は違うのだ。
私は計算式が「合っているか」を確認するのをやめ、数字が「現実の村でどう動くか」を想像し始めた。
第一の村。人足五十人、石材百個。
第二の村。人足三十人、石材五十個。
第三の村……。
表を一つ一つ、村の規模や位置と照らし合わせながら読んでいく。
そして、第四の村の割り当てを見た瞬間。
ピタリと、私のペンが止まった。
(えっ……?)
私は何度も、その行の数字と、計画書に添えられた地図を見比べた。
計算は合っている。全体から見れば、必要な分を必要なだけ割り振っているだけに見える。
でも、この村の『現実』を考えたら、この数字は絶対におかしい。
「先生」
私は、顔を上げた。
「この第四の『エルム村』の負担だけ……」
「ストップ」
私が言葉を言い終わる前に、先生の冷たい声が教室に響いた。
「まだ口に出してはいけません」
先生は、教卓から立ち上がり、私の机の前に立った。
「あなたは今、何かを見つけたのでしょう。ですが、思いつきや推測で口を開いてはいけません。相手は王都の役人です。『おかしい気がする』程度の子供の言葉など、鼻で笑われて終わりです」
私は、ハッとして口をつぐんだ。
そうだ。これは教室のテストじゃない。王都の大人たちが作った、現実の計画書なのだ。
「確実な証拠を見つけなさい。誰が見ても言い逃れのできない、数字の奥に隠された『事実』を。……それができるまで、その口は閉じておきなさい」
先生の目は、私を試すように細められていた。
辺境伯様も、黙って私を見下ろしている。
私は、唇を強く噛み締め、もう一度計画書の数字に目を落とした。
私の見つけた違和感は、ただの気のせいじゃない。絶対に、誰かが意図して作った歪みだ。
数字は、正しく見える。
でも、その完璧な数字の裏に、大きくて真っ黒な嘘が隠されている。




