第13話 手紙を破られる
『私はオルブライト公爵家の娘として、父上のご判断に従います』
最後の一文字に跳ねをつけ、その下に『リゼット・オルブライト』と自分の名前を書き終えた時、私はふうっと安堵の息を吐き出した。
字の大きさは揃っているし、滲みもない。お父様が要求した通りの、完璧な一文だ。
(これで、大丈夫)
この手紙がお父様に届けば、私は「大人しく反省している、手のかからない都合の良い娘」になれる。
そうすれば、お父様はもう私のことなんて忘れてくれる。辺境に置いておけば波風は立たないと安心して、ずっとここにいさせてくれるはずだ。
私は、マルタさんが作ってくれる温かいスープの匂いや、ミナと一緒に歩く雪道、そして厳しいけれど本当の知恵を教えてくれるこの教室を思い浮かべた。
私の、大切な居場所。それを守るための、これは魔法の言葉なのだ。
私は便箋のインクをしっかりと乾かすと、教卓に座っているマグダレーナ先生の元へ歩み寄った。
「先生、お父様への返事が書けました。確認をお願いします」
少しの誇らしさを持って、両手で便箋を差し出す。
前回の『お母様への返事』の時は、自分の気持ちを書いて真っ赤に修正されてしまったけれど、今回は違う。お父様が「一字一句違わずに書け」と命令した事実を書いただけだ。これなら、先生も赤のインクを入れようがないはずだ。
先生は、静かに本を閉じ、私から便箋を受け取った。
銀縁の眼鏡の奥の冷たい瞳が、流れるように文字を追っていく。そして、一番最後の行、私が書き写したその一文の上で、ピタリと止まった。
静かな時間が流れた。
先生は、赤いインクの壺に手を伸ばさなかった。ペンを持とうともしなかった。
ただ、その両手で、真っ白な便箋の端と端を、しっかりと掴んだ。
ビリッ。
「え……?」
耳を疑うような、乾いた音が食堂に響いた。
私の目の前で、お父様へ送るはずだった大切な手紙が、真っ二つに引き裂かれていた。
「せ、先生……?」
私は、自分が何を見ているのか分からなかった。
先生の顔は、氷のように冷たく、無表情のままだった。先生は引き裂いた紙を重ね合わせると、さらに力を込めて、ビリビリと四等分に破いた。
「あ……やめて!」
私はパニックになり、先生の手から紙の欠片を奪い返そうと手を伸ばした。
けれど、先生はそれを冷たく躱し、さらに細かく、八等分に、十六等分に、私の書いた文字が判別できなくなるまで、容赦なく手紙を破り捨てていった。
「何をするんですか! どうして!」
私は、生まれて初めて、大人に向かって大声で叫んでいた。
私の声はひどく震え、裏返っていた。
「それは、お父様への大事なお手紙です! あの言葉を書かないと、お父様が怒るのに! 私が反抗したと思われて、ここから追い出されてしまうのに!」
涙が、ボロボロと溢れて止まらなかった。
どうしてこんなひどいことをするの。私はただ、自分の居場所を守りたかっただけなのに。
王都から捨てられて、やっと見つけた温かい場所。ここでなら、私は息をして生きていけると思ったのに。
せっかく私が波風を立てないように完璧な答えを用意したのに、先生はそれを、理由も言わずに力ずくで壊してしまったのだ。
「先生の意地悪! 私のことが嫌いだから、ここから追い出したいんでしょう!?」
私は両手で顔を覆い、しゃくりあげて泣いた。
赤いインクでバツをつけられるより、ずっと痛くて、苦しかった。先生は私の書いた言葉を添削すらしてくれなかった。ただ、存在そのものを「ゴミ」として消し去ってしまったのだ。
これじゃあ、私の答えを鼻で笑って、話も聞かずに辺境へ送り捨てたお父様たちと、何も変わらないじゃないか。
私は、泣きながら先生を睨みつけた。
謝ってほしかった。「やりすぎた」と言ってほしかった。
けれど、先生の顔には、一片の同情も、後悔の色もなかった。
先生は、細かく破いた便箋の欠片を両手で集めると、私の横を通り過ぎ、壁際に燃える大きな暖炉へと向かった。
「あっ……ダメ!」
パサッ。
私の悲鳴を無視して、先生はその紙片のすべてを、赤々と燃える炎の中へ投げ入れた。
上質な紙は一瞬で黒く焦げ、炎を上げて燃え上がり、形のない灰へと変わっていく。
一枚も、一文字も、決して繋ぎ合わせることができないように。証拠をこの世から完全に消し去るように、先生は炎の揺らめきをじっと見つめていた。
暖炉の炎に照らされた先生の横顔は、恐ろしい魔女のように見えた。
私を守ってくれる存在ではなく、私の小さな幸せを焼き尽くす、残酷な大人の顔だった。
「……私の手紙を、どうして破ったのですか」
私は、絞り出すように聞いた。
せめて、理由を教えてほしかった。法典の読み方を間違えた時のように、「ここが盾にならないからです」と、冷たくてもいいから論理的な説明をしてほしかった。
しかし、先生は炎から目を離さず、ただ一言も発しなかった。
私の問いかけは、パチパチと燃える薪の音に吸い込まれて消えた。
先生は答えなかった。
その夜、私は初めて、先生を憎いと思った。




