9.絶対者の顕現
聖導教会本殿は、文字通りの血の海と化していた。
「ひぃぃぃっ!ば、バルド猊下!?おやめください!」「私たちは同じ教会の――ぎゃあぁぁっ!」
豪奢な大理石の床が赤く染まり、ステンドグラスが破壊の余波で粉々に砕け散る。
三千の私兵団を率いて本殿に乱入した武の枢機・バルドは、立ち塞がる神官や近衛騎士たちを、巨大な戦斧で紙切れのように薙ぎ払っていた。
『残る六枢機たちを血祭りに上げろ』
ノアから下された絶対命令は、バルドの肉体から一切の「躊躇」や「痛覚」を奪い去っていた。
防衛用の魔法を何発浴びようが、肩口に槍が突き刺さろうが、彼の足は止まらない。まさに死を知らぬ狂戦士の如き進撃だった。
やがて、血の滴る戦斧を引きずりながら、バルドは本殿の最深部――六枢機の筆頭にして教会の最高権力者が座す『聖王の玉座』へと繋がる、巨大な黄金の扉を蹴り破った。
ドゴォォォォンッ!!
「……排除……スる……」
虚ろな瞳で呟きながら、バルドは玉座の間へと足を踏み入れる。
そこは、外の阿鼻叫喚が嘘のように静まり返っていた。
祭壇の奥。まばゆい光を放つ女神シエインの巨大な神像の下で、一人の老人が静かに祈りを捧げていた。
六枢機の筆頭。
教皇、グレゴリウス。
「……何事かと思えば。迷える子羊よ、随分とひどい顔をしているではないか」
教皇グレゴリウスが、ゆっくりと振り返る。純白の法衣を纏ったその姿は、一見すると温和で慈悲深い老人にしか見えない。だが、バルドの背後に付き従っていた私兵団の隊長たちは、教皇と目が合った瞬間、本能的な恐怖で一歩後ずさった。
「ハイジョ……!」
だが、ノアの命令に縛られているバルドに恐怖はない。バルドは床板を蹴り砕き、弾丸のような速度で教皇へと突進した。身の丈を超える戦斧が、教皇の小さな頭蓋をカチ割るべく、凄まじい風切り音と共に振り下ろされる。
直撃すれば、巨大な岩石すら粉塵に変わる一撃。
しかし。
「――神の御前であるぞ。這いつくばれ」
教皇が、祈るように組んでいた両手の人差し指を、ほんの僅かに動かした。ただそれだけであった。
ピキィィィィンッ……!!
空間そのものに「ヒビ」が入るような、おぞましい音が響いた。
「ガ、アァァ……ッ!?」
戦斧を振り下ろす寸前で、空中に飛び上がっていたバルドの巨体が、見えない巨大な『箱』に閉じ込められたかのようにピタリと静止した。
「神の恩寵を忘れ、野蛮な血の欲に溺れたか。哀れなバルドよ。お前のその罪深き肉体ごと、悔い改めるが良い」
教皇が静かに目を閉じると同時。バルドを閉じ込めていた空間が、四方八方から内側に向かって、一気に『圧縮』された。
メチャッ……!!
「あ、アァ――――ッ」
バルドの悲鳴は、最後まで発音されることはなかった。身の丈二メートルを超す鋼の肉体と、分厚い魔法の鎧、そして巨大な戦斧。そのすべてが、一瞬にして「直径数十センチの真ん丸な血の球体」へと圧縮され、ボトリと玉座の前に転がり落ちたのだ。
「ヒィッ……!?」「バ、バルド猊下が……一瞬で……!」
最強の武神であったはずの男が、指一本触れられずにただの肉塊へと変えられた。
その神を冒涜するような圧倒的な光景を前に、三千の私兵団の心は完全にポッキリと折れ、彼らは武器を投げ捨てて一斉に悲鳴を上げながら逃げ出した。
「ふむ……。バルドの目、どこか正気ではありませんでしたね。まるで精巧な操り人形のようでした」
教皇は足元に転がった血の球体を冷たい目で見下ろし、ポツリと呟く。
「……やはり、下界を這い回っている『ネズミ』は、少々小賢しい真似をするようだ。我ら六枢機も、少しばかり本腰を入れて掃除をせねばなりませんね」
◆
同じ頃。
王都を見下ろす大時計塔の最上階。
「……え?」
双眼鏡で本殿の様子を監視していた俺は、思わず間の抜けた声を漏らした。教皇の玉座の間にバルドが突入した直後、バルドの生命反応が完全に「消失」したのだ。
カチリ。
それと同時に、俺の左眼の奥で、重々しい金属音が響いた。
「ノア様? いかがなさいましたか?」
床に座って休んでいたシトリーが、不思議そうに首を傾げる。
「……バルドが死んだらしい」
「はぁ!?バルドが死んだ!?」
シトリーが素っ頓狂な声を上げた。
「あの筋肉ダルマ、私が手こずるレベルの耐久力ですわよ!?しかも三千の軍隊を引き連れていましたのに、もう相打ちになったというのですか!?」
「いや、相打ちじゃない。残りの枢機卿たちはピンピンしている。バルドは恐らく、本殿の最奥にいた『教皇』に、何もできないまま瞬殺されたんだ」
俺の言葉に、シトリーの顔から表情が抜け落ちた。
「あのバルドを、瞬殺……?いかに制限解除した私といえど、あいつを即死させることは不可能ですわよ?この教会のトップには、一体どんな化け物が座っているというのですか……」
「さあな。だが、あの圧倒的な暴力を一瞬でスクラップにするような『規格外の化物』が、俺たちの最後の標的だということだけはハッキリした」
俺は左眼を押さえた。対象の死によって『天秤の制約』の絶対命令が終了したのは間違いない。
「……どうなさいますか、ノア様。私の力が戻るまでは、まともな戦力はゼロ。対して敵は、バルドを瞬殺するバケモノです。少し、分が悪すぎるのでは……」
珍しく弱音を吐くシトリー。だが、俺の口角は自然と吊り上がっていた。
「いいや、逆だシトリー。むしろ最高じゃないか」
「え?」
「どんな強力な魔術を持っていようが、どれだけ巨大な権力を持っていようが……あいつらが『言葉』を話し、己の保身のために『見栄(嘘)』を張る人間である限り、俺の盤面からは絶対に逃れられない」
俺は双眼鏡を放り投げ、大時計塔の縁に立った。
「ここからが本当の頭脳戦だ。あのバケモノから『決定的な嘘』を引き摺り出し、神の御前で地に平伏させてやる」
暴力を極めた駒は消え、盤面は再びまっさらな状態へとリセットされた。
最弱の復讐者と、神をも騙る絶対者。
王都の命運を懸けた、反逆劇が始まろうとしていた。




