8.最弱の護衛任務
王都を一望できる、大時計塔の最上階。
そこは、眼下で繰り広げられる『反逆のチェスゲーム』を見下ろすには、これ以上ない特等席だった。
「ふふっ……燃えていますわね、ノア様」
大時計塔の冷たい石壁に背を預けながら、シトリーが艶然と微笑んだ。
その視線の先では、王都の中心にそびえ立つ白亜の『聖導教会本殿』が、バルド率いる三千の私兵団によって物理的に蹂躙され、黒煙と業火に包まれている。
俺がバルドに下した絶対命令は、『残る六枢機たちを血祭りに上げろ』。
俺の左眼の奥にある天秤の紋章は、未だに黄金の光を放ったままだ。つまり、バルドは現在進行形で本殿の奥へと進撃し、かつての仲間たちと殺し合いを演じている最中ということになる。
「ああ。最高の景色だ」
俺は双眼鏡を下ろし、満足げに頷いた。
だが、隣に立つシトリーの様子が少しおかしい。彼女は普段の狂気じみた余裕を見せることなく、俺のコートの袖をギュッと強く握りしめ、小さく肩で息をしていた。
「……無理をするな。座って休んでいろ、シトリー」
「い、いえ……ノア様のお傍を離れるわけには……っ」
強がるシトリーの額には、冷や汗が滲んでいる。
無理もない。王国最強の騎士であるレオンを無力化するため、彼女は吸血鬼としての『制限解除』を強行した。その代償として、現在の彼女の魔力は完全に底をつき、肉体的なステータスは『少し運動神経の良い人間の少女』レベルにまで落ち込んでいるのだ。
「……本当に、お前には苦労をかけるな」
俺がシトリーの銀色の髪を優しく撫でてやると、彼女はふにゃりと顔を綻ばせ、俺の胸元にコテンと頭を預けてきた。
「えへへ……ノア様に守っていただけるなんて……制限解除も、悪くありませんわね……」
完全に恋する乙女の顔になっているヤンデレメイドを抱き留めながら、俺はフッと息を吐いた。
「さて、イチャつくのはここまでだ。……お客様のお出ましらしいぞ」
俺の言葉と同時だった。
ヒュンッ!!
夜の闇を裂いて、音もなく飛来した三本の黒い短剣が、俺とシトリーの足元の石畳に深々と突き刺さった。
「……チッ。やはり、バルドの軍勢の動きを監視していた『目』がいたか」
俺はシトリーを背中にかばうように立ち塞がり、時計塔の暗がりを睨みつけた。
「いかにも。異端者ノア・ヴェインと見受けする」
影の中からヌルリと現れたのは、教会の暗部である『異端審問官』の黒装束を纏った五人の暗殺者たちだった。彼らの手には、毒の塗られた湾曲剣や、小型のクロスボウが握られている。
「武の枢機バルド猊下が突如として狂乱し、本殿を襲撃し始めた。……奴が向かう直前にお前と接触していたという報告は受けている。一体、どんな妖術を使った?」
リーダー格の男が、蛇のような冷たい目で俺を射抜く。
「さあな。あいつが勝手にトチ狂っただけじゃないのか?」
「とぼけるな。お前をここで生け捕りにし、教会の地下牢でその四肢を一本ずつ削ぎ落としながら、ゆっくりと吐かせてやる」
暗殺者たちが、一切の隙のない足取りでジリジリと距離を詰めてくる。
シトリーが俺の背後で「……っ」と悔しそうに唇を噛んだ。
「申し訳ありません、ノア様。今の私では、あの程度の雑魚の群れすら……」
「気にするな。俺が守ると言っただろう」
俺は小声で返しつつ、脳をフル回転させた。
俺の異能『天秤の制約』は、同一人物への命令の重複(上書き)ができない。つまりバルドの動きを止めて援軍に回すことは不可能だ。
(といっても、バルドは遥か向こうで奮闘中な訳だが)
もちろん、目の前の暗殺者たちを新たに操ることはできるが……能力の発動には『決定的な嘘』という重いトリガーが必要になる。感情を殺したプロの暗殺者を相手に、悠長に言葉の駆け引きをして嘘を引き出している暇などない。彼らの言葉が「本心(真実)」であれば、能力は不発に終わるリスクもある。
確実な能力のトリガーを引く隙はなく、シトリーの暴力もない。
普通の人間なら、完全に『詰み』の状況。
だが、俺にはこの盤面をノーリスクでひっくり返す手札がある。
――相手の『情報による錯覚』を利用することだ。
「……おい、お前ら。少し勘違いをしていないか?」
俺は一切の恐怖を見せず、むしろ呆れたようなため息をついて、暗殺者たちを鼻で嗤った。
「勘違い、だと?」
「お前ら、俺がどうやってバルドやマクシムを無力化したと思っている?『妖術』?バカを言うな。俺は魔力を持たない無能だぞ?」
俺は両手を広げ、無防備な胸を晒してみせた。
その堂々たる態度に、暗殺者たちの足がピタリと止まる。
「俺はただの頭脳労働担当だ。……戦闘は、全部後ろのメイドに任せているんだよ」
俺が親指で背後のシトリーを指差すと、暗殺者たちの視線が、俺の背中に隠れるように震えているシトリーへと注がれた。
「メイド……?あの女がバルド猊下を操ったとでも言うのか?震えているようにしか見えんが」
「震えている?違うな」
俺は懐から、マクシムの隠し金庫からくすねていた『血のように赤いポーション(ただの高級回復薬)』の小瓶を取り出し、指先で弄んだ。
「こいつは吸血鬼の真祖だ。今、血に飢えすぎて『興奮』で震えているんだよ。……なあ、シトリー?」
俺が小声で合図を送ると、シトリーは一瞬キョトンとした後、すぐに俺の意図を理解した。
「……ふふっ、ふふふふっ!!あははははははっ!!」
シトリーが突如として、大時計塔に響き渡るような狂気じみた高笑いを上げた。
魔力は無くても、数百年を生きた吸血鬼の『殺気』と『演技力』は本物だ。彼女の瞳が赤く輝き、嗜虐的な笑みが暗殺者たちを捉える。
「あ、ああ……ノア様ぁ!もう我慢できませんわ!こいつらの血、全部一滴残らず啜って、干からびたミイラにしてしまってもよろしいのですか!?」
その異常な気迫に、プロの暗殺者たちでさえ一瞬息を呑み、後ずさった。
「構わん。存分にやれ」
俺はそう言い放つと同時に、手に持っていた赤いポーションの小瓶を、暗殺者たちの足元へと全力で叩きつけた。
パリンッ!!
ガラスが砕け、真っ赤な液体が石畳にぶち撒かれる。
同時に、俺は足の裏に仕込んでいた『風の魔石(小)』を踏み砕いた。突風が巻き起こり、赤い液体がまるで「意思を持った血の霧」のように空中に舞い上がる。
「な、なんだこれは!?血の魔術か!?」「退避しろ!陣形を広げろ!!」
未知の魔術(に見せかけたただの演出)と、シトリーの放つ本物の殺気に当てられ、暗殺者たちが完全にパニックに陥り、俺たちから距離を取るように後方へと飛び退いた。
(……かかった!)
彼らが飛び退いた先。
そこは、大時計塔の床板が一部木製になっている、古く脆い部分。
俺がこの時計塔を『特等席』に選んだ最大の理由であり、事前にマクシムから奪った『起爆札』を仕掛けておいたポイントだ。
「シトリー、伏せろ!」
「はいっ!」
俺がシトリーを引き寄せて床に伏せると同時。
俺は指を鳴らし、暗殺者たちの足元に仕掛けた起爆札を起動させた。
「――っ!?罠か!!」
ドゴォォォォォンッ!!!
大音響と共に、暗殺者たちの足元の床板が広範囲にわたって爆発・崩落した。
「ぐわああああああっ!!」「ひぃぃぃっ!?」
足場を失った五人の暗殺者たちは、為す術もなく大時計塔の暗い空洞へと飲み込まれ、遥か数十メートル下の地面へと真っ逆さまに転落していった。
やがて、微かな落下音だけが響き、大時計塔に再び静寂が戻る。
「……ふぅ。どうにか片付いたな」
俺はゆっくりと立ち上がり、崩落した大穴の縁から下を見下ろして安全を確認した。
能力のトリガーを引けない状況での、綱渡りの生存競争。背中に冷たい汗が伝っているのが分かる。
「お見事ですわ、ノア様……!私の殺気とただの薬のビンで、あいつらを完璧に『爆薬の上』へと誘導するなんて……!」
床に伏せていたシトリーが、目をキラキラと輝かせて俺を見上げていた。
「お前が完璧に『狂った吸血鬼』を演じてくれたおかげだ。敵がプロであればあるほど、未知の脅威(お前)に対しては、防御や回避を優先して後ろに下がるからな。本当に最高の相棒だよ、お前は」
俺が手を差し出すと、シトリーは嬉しそうにその手を取って立ち上がった。
「やはり、ノア様の知略は世界で一番美しくて、残酷で……最高に愛おしいですわ♡もう、ノア様がいれば私の暴力なんて一生いらないかもしれません!」
「それは困る。お前の力が戻るまでは、こういう寿命の縮むハッタリの連続になるからな」
俺は苦笑しながら、再び時計塔の外、燃え盛る教会本殿へと視線を向けた。
バルドへの命令は、まだ上書きの条件を満たしていない。
つまり、バルドと残る六枢機たちとの殺し合いは、まだ決着がついていないということだ。
「……さあ、俺たちの『お掃除道具』は、どこまで本殿を荒らし回ってくれるか。……お手並み拝見といこうか」
最弱の俺と、力を失った吸血鬼。
二人きりの時計塔の上で、俺たちは反逆の炎に包まれる王都の夜を、静かに見下ろし続けた。




