48.机
今年から晴れて大学生となり、イケイケなキャンパスライフを送ってやると意気込んでいたのも束の間、僕は早々に現実を突きつけられていた。
友人が、できない。
理由は単純だった。こちらから話しかけなくても、向こうから話しかけてくるだろうという慢心。高校まではそれでどうにかなっていたせいか、今さら自分から声をかける勇気を、すっかり失っていた。
どうすれば、向こうから話しかけてくれるだろう。そう考えながら、僕は今日も教室の隅――誰にも邪魔されない“特等席”に腰を下ろし、趣味の読書に逃げ込む。
今まで、この席の隣に人が座ったことはなかった。少し寂しくて、でも落ち着く。そんな、矛盾した場所だ。
――その日、初めて例外が現れた。
講義が始まる直前、隣の席に誰かが座った。
眼鏡をかけた女の子だった。
派手さはない。髪はきちんと整えられ、ノートと筆箱は無駄に大きくも小さくもない。良く言えば大人しい、悪く言えば地味。それなのに、不思議と目を引いた。
今まで誰も来なかった席に、人がいる。それだけで、心臓が少しうるさくなる。話しかけることはできず、僕は誤魔化すように本を開いた。
授業が始まり、静かな時間が流れる。隣から聞こえるシャーペンの音は、一定のリズムを刻んでいた。そのとき、足元にころりと何かが転がってきた。彼女のシャーペンだった。
「あ……」
小さな声。
僕は拾い上げ、彼女に差し出す。
「……これ、落ちてたよ」
彼女は顔を上げ、シャーペンを受け取った。
眼鏡越しに見えた瞳が、驚くほど澄んでいて、息が止まる。
――一目で、やられてしまった。少しの間、時間が止まったように見つめ合う。だが、彼女は表情を変えることは無かった。
「……ありがとう」
それだけ言って、彼女はノートに視線を戻した。
何事もなかったように。
なのに、僕の鼓動だけが、しばらく元に戻らなかった。
次の講義の日、僕は別の席に座ろうとしていた。
隣に人がいると、どうにも調子が狂う。
それでも、気づけば足は“特等席”へ向かっていた。
癖なのか、それとも――。
彼女は、もうそこにいた。
授業前の休み時間。
僕が本を読んでいると、ページの上に影が落ちる。
「……それ、面白いですか」
顔を上げると、彼女がこちらを覗き込んでいた。
昨日より、ほんの少しだけ距離が近い。
「うん。結構、好きで」
「そうなんだ」
短い返事。
それで終わりかと思った瞬間、視界の端で違和感に気づく。
――栞が、ない。
「あれ……」
「落ちてましたよ」
彼女の指に、僕の栞が挟まれていた。
返されるとき、指先が一瞬だけ触れる。
冷たい。なのに、不思議と嫌じゃなかった。
それから、彼女は時々話しかけてくるようになった。好きな本のジャンルが似ていること、ノートを取るのが好きなこと、静かな場所が落ち着くこと。
どれも、普通の話だ。普通なのに、彼女の視線だけは、いつも僕から離れなかった。まるで、逃がさないとでも言いたげに。
「……この席、いいですよね」
「うん。落ち着く」
「私もです」
一拍置いて、彼女は続けた。
「ここ、空いてて。……誰にも取られないから」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
ある日、珍しいことにこちらに興味を持ってくれた男子が僕に話しかけてきた。
その瞬間、隣で「パキッ」と乾いた音がした。彼女のシャーペンの芯が折れて、整然としたノートに転がった。ふと呟く。
「……うるさいの、苦手なんです」
誰に向けた言葉か、分からなかった。
それ以来、不思議と誰も僕に近づかなくなった。理由を考えるのは、なぜか怖かった。
僕は、席を変えなくなった。正確には、「変える」という発想が浮かばなくなった。
休み時間。
本を開くと、彼女がそっと距離を詰めてくる。
「ねえ」
「なに?」
「あなたは、ここにいてくれますよね」
文末に“?”はない。問いかけというより、確認。
僕は曖昧に笑って頷いた。
彼女は、安心したように微笑む。
「よかった。……逃げられたら、困るから」
冗談だと思うべきだった。
けれど、彼女の瞳は冗談を許さない色をしていた。
今さら、別の席を思い浮かべようとしても、できない。
教室の景色は、この机からしか見えなくなっていた。
今日も、僕は特等席に座る。それが、自分の意思だと信じながら。
――彼女が、隣にいる限り。
いつもお読みいただきありがとうございます!!
ご感想をいただけると、今後の創作の参考になりますし、とても励みになります。
一言でも大歓迎ですので、お気軽にお寄せください!




