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 薄汚れた川沿いにある、小さな建設会社に着くと、社員はみんな出払った後で、所長だけが幸也のことを睨みつけるように座っていた。

「遅い! どんだけ遅刻すれば、お前は気が済むんだ!」

 遅いと言われたり、もう来るなと言われたり、この会社はどう考えてもヘンだ。だけどここはぐっとこらえ、車の中で梨花に言われたとおり「すみませんでした」と頭を下げ、謝る仕草を見せた。

 体格のいい所長には、怖い顔で睨まれちょっとビビったけど、それは一瞬のことで、あとは何事もなかったように車に乗せられ、現場に連れて行かれた。

 梨花はそんな二人に向かって、満足そうに手を振っていた。


 夕暮れ間際、所長と一緒に事務所へ戻る。待ち構えていたように幸也へ駆け寄ってきたのは、梨花だった。

「おつかれ。ね? 大丈夫だったでしょ?」

「まあね」

 所長にはいつにも増してこき使われた気がするけど、それだけで済んだのならまぁよしとするか。結局悪いのは自分なんだし、と冷静になった今なら思える。

「これ、よかったら食べてよ」

 建物の脇にある水道で手を洗い終えると、梨花がラップにくるまれたおにぎりを幸也に差し出してきた。

「大丈夫。梅干し入ってないから」

 幸也はちらりと周りを見た。同年代の社員がにやにやしながら通り過ぎる。

「べつに受け取る筋合いはないけど、受け取っといてやる」

「なにそれ。えらそーに。素直に受け取ればいいじゃん!」

 梨花がおにぎりを紙袋に突っ込み、それを幸也の胸に押し付けた。

 確かに腹は減っている。遅刻したせいで、昼ご飯を食べ損ねたのだ。梨花のおにぎりがめちゃくちゃ美味いことも知っている。

 幸也はそそくさと建物の影へ移動すると、外階段の下へ腰かけ、そのままおにぎりを頬張った。

「どう? 美味しいでしょ?」

 梨花が幸也の隣に座る。何気なくその指先を見ると、見たこともない指輪が薬指にはまっていた。


「うまくいってんの? あの男とは」

 梨花とはもう口も利きたくなかったのに、なぜだか幸也はそんなことを口にしていた。

「ん、まあね」

 幸也の隣で夕暮れの空を眺めながら、梨花がつぶやく。幸也はそれ以上何も言わずに、おにぎりを口に入れた。

 川の向こうに見える高台に、住宅が並んでいるのが見える。どれも高級そうな家ばかりだ。事務所はこんなに古臭いけど、所長の家もあのあたりに建っている。

 所詮梨花はお嬢様なのだ。何の苦労もなく父親の会社に就職して、適当に雑用をこなし給料をもらっている。

 所長の一言で路頭に迷ってしまうかもしれない、いつだってギリギリの自分とは、根本的に違うのだ。

 そんなことを、付き合っている時から思っていた。

 だから梨花に別れを告げられた時は、どこかほっとしている自分がいた。

 梨花は梨花に合った男と付き合うべきだ。


 冷たい風が吹き、梨花が長い髪を押さえる。ついたばかりの街灯の灯りに照らされて、薬指の指輪がやけに眩しく光る。

「さむっ。おれ、もう帰るわ」

「うん」

 食べ残したおにぎりを袋に突っ込み、幸也が立ち上がった。梨花はぼんやりとそんな幸也のことを見上げている。

「おれたち……別れたんだよな?」

 幸也のことを見つめたまま、黙り込んでいた梨花が、消えそうな声で答える。

「うん。そうだよね」

 梨花がどこか寂しそうに見えるのは、自分の思い過ごしだろう。フラれたのは、こっちなんだから。

「じゃあ」

「うん、明日。遅刻しないでよ」

 軽く手を上げて梨花に背中を向ける。そしてふと、部屋にひとりで残してきた千桜のことを思い出す。

 千桜は……あの冷たい部屋に、まだいるのだろうか。

 北風に背中を押されながら顔を上げる。

 丘の上の住宅は、ぽつぽつと暖かな灯りを灯しながら、大事な人の帰りを待っているように見えた。

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