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部屋のドアが激しく叩かれたのは、幸也がやかんを火にかけた時だった。
「幸也! いるの? いるんでしょう!」
幸也はちらりと、窓辺に座っている千桜の姿に目をやった。千桜は周りの音など気にする様子もなく、さっきからずっと、スケッチブックに鉛筆を走らせている。
小さくひとつ息を吐き、ガスの火を止めると、幸也は部屋のドアを開いた。
「幸也! やっぱりいた!」
「なに?」
目の前に立っているのは、会社の地味な制服を着た梨花だ。
「なにじゃないでしょ? どうして仕事来ないの?」
「来ないじゃなくて、行けないんだろ。あんたの親父に、もう来るなって言われたんだから」
梨花は首を横に傾けて、呆れたようなため息を吐く。幸也より二つ年上のせいか、付き合っている頃から梨花はこんなふうに、お姉さんぶる態度をとるところがあった。
「あのね、お父さんの『もう来るな』は口癖なの。幸也だけじゃなく、他の人にもしょっちゅう言ってるでしょ? 本気にするほうがおかしいの!」
「なんだそれ。いいよ、もう。あんな会社、こっちから辞めてやるから」
「は? 辞めてどうすんのよ。あんた他に就職できるあてあるの?」
悔しいけど言い返せない。
知らない町を転々とした後、自分が生まれたこの町に戻ってきたけれど、仕事も住む場所もなくぶらぶらしていた幸也のことを、拾ってくれたのはあの所長だ。
もっと怪しい世界に引き込まれてもおかしくはなかったのに……その点では、一応所長には感謝しているつもりだ。
「とにかく一緒に来なさい。一言謝れば済む話なんだか……」
言いかけた言葉を切った梨花は、幸也の肩越しに部屋の中を覗き込んだ。
「だれ?」
「え?」
「だれ? あの女」
梨花の視線の先を追いかける。窓辺でスケッチブックを広げている千桜は、こちらのことなど関係ないように、黙って鉛筆を動かしている。
「ああ、あの子は昨日公園で拾って……」
「拾ったってなによ。犬や猫じゃないんだから」
梨花が鋭い視線で幸也を睨む。
面倒くさいな。いちいち説明しなくちゃいけないのかよ。
「どうだっていいじゃん。お前はもう、おれの彼女でもないんだし」
今度は梨花が黙り込んだ。黙り込んだまま、千桜のことを睨んでいるから、幸也はさりげなく梨花の体を外へ押し出した。
「わかったよ。会社行くから。ちょっと待ってて」
「一分で支度してよ。寒いんだから」
「そんな無茶苦茶な……」
それでも仕方なく、一旦ドアを閉めると、幸也はいつも着ている上着を羽織りながら部屋の中を見た。
千桜はさっきと変わらない姿勢で、じっと絵を描き続けている。
「おれ、出かけてくるから」
ゆっくりと視線を上げた千桜が、やっと幸也を見た。
「帰りたかったら勝手に帰って。鍵かけなくていいから」
千桜の後ろから朝日が差し込む。短い髪が金色に揺れる。
「いても、いいの?」
「え?」
千桜がかすかに微笑んで幸也を見た。
「まだここにいてもいいの?」
窓辺に座る千桜の瞳は美しく澄んでいて、幸也は自分がものすごく、汚いもののように思えてきた。
「勝手にすれば」
吐き捨てるようにそう言うと、部屋を飛び出した。
帰ったらいなくなっていればいい。頭の隅でそう願う。
面倒なのはごめんだ。昨日の夜のことは全部、なかったことにしてしまいたい。
アパートの階段を下りると、会社の軽自動車の運転席に梨花がいた。
アクセルを踏み込みながら、まだ文句を言っている梨花を無視して振り向くと、見慣れたアパートの二階の窓に、小さく儚げな影が映っていた。




