第1話 地上で話そう
午後四時十二分。
奥多摩第一ダンジョン救助管理所に、その日三件目の救難信号が入った。
「第六階層、青晶湖東岸。要救助者は二名です」
管制員の声に、黒瀬慎吾は顔を上げた。
「父親四十七歳、娘十五歳。父親が右脚を負傷して動けないとのこと。娘さんからの通信は途中で途絶えました」
「青晶湖の東岸か。きれいな場所ほど、帰る時間を忘れやすいんだよな」
黒瀬は冷めた缶コーヒーを置き、壁の時計を見た。
一般探索者の退場時刻は午後六時。
しかし、管理所に残っている現場要員は黒瀬一人だった。
第四階層では集団食中毒。
第九階層では崩落事故。
救助員も医療班も、すでに出払っている。
「魔力霧の状況は?」
「二十分前から濃度が上昇しています。地下水路の増水予報も出ています。
応援の到着は一時間以上先です」
「一時間以上か。ちょっと待てないな」
黒瀬は立ち上がった。
「行ってくるよ」
「待ってください。魔力霧と増水警報が重なったため、現在の青晶湖東岸はBクラス以上を含む複数名での対応案件です」
「うん。知ってる」
「いくら黒瀬さんがSクラスでも、単独救助は危険です」
「だから、場所の確認だけ先にしてくる。危ないと思ったら戻るよ」
「黒瀬さんまで動けなくなったら、救助対象が増えるだけです」
「それは困るなあ」
「真面目に言っています」
「俺も真面目だよ」
一時間待てば、父娘は増水に巻き込まれるかもしれない。
黒瀬は止血剤、固定具、保温シート、牽引ロープを小型リュックへ詰めた。
非常食の棚からチョコレートを三本取る。
「遠足に行くんですか」
「疲れたときは甘いものが一番だからね」
ロッカーの奥には、一本の黒い長剣が立てかけられていた。
国内初の第四十階層到達。
災害級魔物の単独討伐。
世界探索者ランキング三位。
黒瀬が日本最強と呼ばれていた頃に使っていた武器だ。
だが、黒瀬は長剣を取らなかった。
腰に差したのは、救助用ナイフだけだった。
「戦わないんですか」
「今日は探索じゃないからね」
黒瀬はロッカーを閉めた。
「迎えに行くだけだよ」
◇
奥多摩第一ダンジョンが出現して、二十三年になる。
ダンジョンが現れたのと同じ頃から、人間の一部に《スキル》と呼ばれる特殊な能力が発現するようになった。
身体能力を高める《身体強化》。
出血を抑える《止血》。
周囲の生物を探る《索敵》。
同じスキルでも、使う者によって範囲や精度は大きく異なる。
黒瀬のスキルは《索敵》。
珍しい能力ではない。
だが、二十年間使い続けた黒瀬は、人間と魔物の違いだけでなく、距離や移動方向、生命反応の強弱まで読み取ることができた。
かつては、誰よりも早く敵を見つけるために使った。
今は、助けを待つ人を見つけるために使っている。
「救助管理所、こちら黒瀬。第五階層を通過」
『了解しました。魔力霧が急速に濃くなっています』
「こっちも真っ白だよ」
『視界は?』
「三メートルくらいかな。美人がいても見逃すね」
『黒瀬さん』
「はいはい。真面目にやります」
魔力霧の中では、電子地図の位置情報がずれる。
《索敵》にも細かな雑音が混じり、正確な位置を読み取りにくい。
黒瀬は端末を閉じ、壁の苔に触れた。
水の匂い。
足元の傾斜。
水滴が落ちる音。
スキルだけで、人を救えるわけではない。
二十年間歩き続けた経験も使い、黒瀬は第六階層へ進んだ。
「青晶湖の水位は?」
『平常時より十四センチ上昇。上昇速度も速まっています』
「帰りは南側の管理路を使うよ」
『現在の通行状態は確認されていません』
「十七年前は通れたんだけどね」
『十七年前の情報を当てにしないでください』
「駄目だったら戻るよ」
『黒瀬さん自身も含めて、三人で帰ってきてください』
黒瀬は少し笑った。
「了解。三人で帰るよ」
◇
青晶湖へ出ると、霧の向こうに青い光がにじんでいた。
湖底を覆う無数の結晶が、星空のように瞬いている。
「やっぱり、きれいだなあ」
『黒瀬さん?』
「いや。こっちの話」
黒瀬は足を止め、《索敵》の範囲を広げた。
小型の魔物や虫の反応に交じり、湖岸の奥に二つの人間らしい反応がある。
一つは動いている。
もう一つは、その場からほとんど動いていない。
「二人とも生きてる。東岸の奥だ」
『正確な位置は?』
「霧で揺れてる。足跡を追うよ」
濡れた地面には、大きな靴跡と小さな靴跡が残っていた。
途中から、大きな方の足跡が乱れている。
「救助隊でーす! 聞こえたら返事をしてください!」
黒瀬の声が湖岸へ響いた。
「……こっちです!」
霧の奥から、少女の声が返ってきた。
「おっ、いたいた!」
大きな岩の陰に、父娘がいた。
父親は倒木にもたれ、右膝を押さえている。ズボンは裂け、血が黒くにじんでいた。
娘は、自分の上着を父親の脚へ巻きつけている。
黒瀬の姿を見た瞬間、少女の顔がくしゃりと歪んだ。
「よかった」
黒瀬は二人の前へしゃがみ込んだ。
「二人とも、よく頑張ったね」
「お父さんを助けてください」
「もちろん。そのために来たんだ」
父親の膝には、細い結晶片が刺さっていた。
骨折はしていない。
結晶を抜かなかったことで、大量出血も防げている。
「これ、抜かなかったのは君?」
少女がうなずいた。
「抜いたら、もっと血が出ると思って」
「大正解。すごいじゃないか」
「でも、通報が途中で切れて……」
「場所は分かった。十分だよ」
黒瀬はチョコレートを少女へ渡し、父親の脚を固定した。
「私が、娘の言うことを聞いていれば」
父親が苦しそうに言った。
「その話は、地上へ帰ってからにしましょう。
ここは寒いから、長話はしない方が良い」
少女が胸元から小さな透明容器を取り出した。
中には、青白い花びらが一枚入っている。
「星晶花?」
「はい。お母さんが好きだったんです」
三年前に亡くなった母親と、いつか三人で見に来ようと話していた。
星晶花が咲くのは七年に一度。
来月から娘は母親の実家で暮らすため、父親は今日が最後の機会だと思ったのだという。
「霧が出たとき、娘は戻ろうと言ったんです。それなのに私は、あと少しだからと……」
「花は見られました?」
父親が意外そうに黒瀬を見る。
「……はい」
「きれいでした?」
少女がうなずいた。
「すごく」
「それはよかった」
黒瀬は固定具を締め終えた。
「じゃあ、次は三人で地上の景色を見よう」
「責めないんですか」
「もう十分、自分で責めてるでしょう?」
黒瀬は父親の腕を肩へ回した。
「今はその力を、歩く方に使いましょう」
◇
帰路へ入って五分後。
青晶湖の底から、地鳴りのような音が響いた。
『東岸水路が決壊しました! 水位上昇が予測より二十分早まっています!』
背後から、大量の水が流れ込む音が近づいてくる。
「黒瀬さん。私を置いていってください」
父親が足を止めた。
「娘だけを連れていってください」
「それはできないなあ」
「このままでは全員が」
「大丈夫。別の道がある」
黒瀬は岩壁の亀裂を探った。
十七年前、探索中に見つけた横穴だ。
南側の管理路まで続いていれば、正規ルートより先に増水を避けられる。
「地図にはありません」
「地図にない道って、ちょっとわくわくするでしょう?」
少女が首を振る。
「しません」
「そうか。今はそうだよね」
黒瀬は横穴を確認した。
「紗季ちゃん、先に入って。お父さんは俺が連れていく」
少女を先に進ませ、黒瀬は父親へ牽引ロープを巻いた。
冷たい水が足元へ届き、すぐに膝の高さまで上がる。
「もう無理です!」
父親が岩壁をつかんだ。
「私のせいで、娘まで死んでしまう!」
「お父さん!」
横穴の先から少女が叫ぶ。
「私が花を見たいって言ったから!」
黒瀬は父親の肩を軽く叩いた。
「娘さん、まだ話したいことがいっぱいあるみたいですよ」
「……はい」
「だったら、ここで終わるのはもったいない」
黒瀬はロープを握り直した。
「謝るのも、怒るのも、地上でやりましょう。温かい飲み物もありますからね」
父親が歯を食いしばり、再び前へ進む。
そのとき、《索敵》の外側へ三つの反応が入った。
人間ではない。
大きく、速い。
こちらへ向かっている。
直後、霧の向こうに三対の赤い目が浮かんだ。
青晶狼だ。
「二人とも、そのまま前へ」
黒瀬は父親のロープを少女へ渡した。
「紗季ちゃん、お父さんを引いて」
「黒瀬さんは?」
「ちょっと道を閉めてくる」
黒瀬は救助用ナイフを抜いた。
三頭を倒すことは難しくない。
だが、血の匂いを流せば、さらに魔物が集まる。
今必要なのは勝つことではない。
全員で帰ることだ。
黒瀬は横穴の上に張り出した巨大な青晶柱へ、ナイフを突き立てた。
一度。
二度。
三度。
青晶狼の反応が一気に近づく。
黒瀬は振り返るより先に半歩ずれ、飛びかかってきた狼の鼻先をナイフの柄で打った。
その間に、結晶へ最後の一撃を入れる。
「よし」
黒瀬が横穴へ飛び込む。
直後、巨大な青晶柱が崩れ落ち、入口を塞いだ。
狼の爪が黒瀬の背中をかすめる。
救助服が裂け、熱い痛みが走った。
「黒瀬さん!」
「大丈夫、大丈夫!」
黒瀬は父親の背中を押した。
「みんな、よく頑張ってるよ!」
やがて、先を進んでいた少女が声を上げた。
「光が見えます!」
「うん。それが出口だ」
少女が泣きながら笑った。
黒瀬は二人の背中を押す。
「もう少しだ。地上まで帰ろう」
◇
三人がダンジョンの入口へ戻ったのは、午後十時三十分だった。
父親が担架へ乗せられ、少女はその手を握った。
管制員が黒瀬へ駆け寄る。
「背中から血が出ています!」
「本当?」
「自分で分からないんですか!」
「ちょっと痛いとは思ってた」
父親が担架の上から頭を下げた。
「黒瀬さん。本当にありがとうございました」
「こちらこそ。最後まで歩いてくれて、ありがとうございました」
黒瀬は少女を見る。
「紗季ちゃんも、止血も通報も完璧だった。よく頑張ったね」
少女は星晶花の入った容器を握りしめた。
「黒瀬さんは、どうして救助員になったんですか」
周囲がわずかに静かになった。
日本最強の探索者が、なぜ攻略の第一線を離れたのか。
黒瀬が詳しく語らなかった質問だった。
「昔は、一番奥まで行ける人が、一番すごいと思ってたんだ」
「違うんですか?」
「奥へ行くのもすごいよ」
黒瀬は笑った。
「でも、帰ってくるのも、同じくらいすごい」
救急車へ乗せられる前、父親が娘へ何かを言った。
娘は泣きながら父親の胸を叩き、そのあとで手を握った。
二人とも生きている。
これから何度でも、話の続きをすることができる。
黒瀬が管理所へ戻ると、机には飲みかけの缶コーヒーが残っていた。
「まだ飲むんですか?」
「もったいないからね」
「先に治療です」
「一口だけ」
「駄目です」
そのとき、壁に新しい赤いランプが点灯した。
「今度はどこ?」
「第三階層です。一般探索者が足を負傷しています」
黒瀬は破れた救助服の上から、新しい上着を羽織った。
「黒瀬さんは治療です!」
「応援が戻るまで、場所だけ確認してくるよ」
「駄目です!」
黒瀬はいつものように笑った。
「助けを呼べたなら、あとは迎えに行くだけだから」
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