第32話 言わなかった約束
この回は、ふたりにとって少し特別な時間になります。
タクシーの窓越しに、初夏の京都がゆっくりと沈んでいく。
昼の光はまだ残っているはずなのに、街の輪郭はすでに柔らかくほどけ、夜の気配が静かに入り込んでいた。
二人は、ほとんど言葉を交わさない。
けれど、繋いだ手だけが、離れない。
その温度が、今ここにいることを確かめるように、静かに続いている。
部屋に入ると、外界の音が一段遠のいた。
バルコニーにはすでに火が入っていて、揺れる炎がガラス越しに影を落とし、ここだけが切り離されているように感じられる。
翠はソファに腰を下ろし、少し遅れてエリーが上着を脱ぐ。
ネクタイに指をかけ、そのまま止まる。
外しかけたまま、指が止まる。
視線が落ちる。
それだけで、何かがほどける。
何かを言うべきなのかもしれないと思う。
けれど、その言葉は、すぐに必要ではなくなる。
エリーが近づく。
視線が合い、ほんのわずかな間のあと、距離がやわらぐ。
唇が触れる。
短く、確かめるように。
もう一度、重なる。
今度は、わずかに深く。
呼吸が近く、触れた場所の温度が遅れて身体の内側に広がっていく。
翠は逃げず、ほんのわずかに前へと踏み出す。
もう一度、唇が重なる。
今度は少しだけ深く、そのまま離れたあとも余韻だけが残る。
翠はゆっくりと口を開く。
「……来てくれて、ありがとう」
エリーは何も言わず、指先で頬に触れ、額へ軽く口づける。
それで十分だった。
ふと、翠は左の耳に触れる。
そこにある感触を確かめるようにしたその仕草に気づき、エリーが静かに視線を落とし、そっと唇を寄せる。
触れられた瞬間、呼吸が浅くなる。
理由はわからない。ただ、そこに触れられることが、深く響く。
「……翠」
名前を呼ばれる。それだけで、内側がほどける。
少しの間のあと、翠は息を吐く。
何かが押し上がってくる。
整えた言葉ではない。
「……好きだ」
言ったあとで、わずかに間が空く。
それはすぐに自然な場所へと落ち着いた。
エリーは何も言わない。ただ目を細めて、もう一度触れる。
言葉の代わりのように。
しばらくして、翠は首元に手をやり、細い鎖を外す。
ネックレスを持ったまま少し迷う。
エリーの首にそっとかける。
留め具がうまく合わず、指先がわずかにもたつく。
その間に、エリーがそっと額にキスを落とす。
やっと留まる。
小さなてんとう虫が、エリーの胸元に収まる。
「……持ってて」
それ以上は言わない。
エリーはその重みを指先で確かめる。
何も言わない。
そのまま、ゆっくりと翠を抱き寄せる。
炎が、静かに弾ける。
パチ、と。
その音に、翠はわずかに息を止める。
どこか深い場所に触れる。
理由もなく、身体が先に反応する。
もう一度、火が鳴る。
翠はエリーに近づく。
今度は、自分から。
首に手を回し、引き寄せる。
視線が合う。
そのまま唇を重ねる。
触れるのではなく、確かめるように、深く、ゆっくりと。
呼吸が乱れ、絡み、離れようとして離れない。
エリーの手が背をなぞり、音を探るように触れてくる。
「……焦らすなよ」
低い声に、翠はほんの少しだけ笑い、そのまま手を下ろす。
ボタンに触れ、ひとつ外す。
開いた胸元に唇を落とし、軽く、確かめるように触れる。
もうひとつ外す。
――そこで指が止まり、わずかに呼吸がずれて、視線だけが落ちる。
同じように触れる。
今度は、少しだけ遅く。
エリーの呼吸が深くなる。
「……翠」
名前が、わずかに低くなる。
それでも翠は止めない。指先で触れ、反応を拾う。
ふと、その手に触れる。
止めるつもりだったのかもしれないが、指先が絡み、そのまま離れない。
どちらが先か分からないまま距離が詰まる。
触れていないのに、息が近い。
「……もう、いいだろ」
低く、滲む声。
次の瞬間、唇が重なる。
深く、離れる余地を残さないまま、そのまま呼吸ごと絡み合い、ほどけかけたものを引き戻すように、もう一度、確かめるように重なる。
翠は逃げない。そのまま応える。
指先で手を取り、ひとつひとつの指に唇を落とす。
硬い感触。音を刻んできた指。
言葉にはしない。けれど、それで伝わる。
呼吸が揃い、崩れ、また重なる。
火の音だけが、残る。
やがて、
すべてが静かに落ち着く。
翠はエリーの胸に額を預ける。
まだ、温度がある。
言葉は出てこない。必要がない。
エリーの手が髪に触れ、ゆっくりと撫でる。
外の世界は、まだ戻ってこない。
炎が静かに揺れている。
そのまま動かない。
夜は、まだ、そこにあった。
もう、言わない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
言わないまま、結ばれるものもあります。




