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第33話 そのまま、朝になる

夜の余韻は、朝にも残ります。


コーヒーの香りが、ゆっくりと部屋に満ちていた。


まだ目を開けないまま、すいはその中に身を置いている。

身支度をするエリーの気配が、まだすぐそばに残っている。


微睡の奥で、触れられる。


額に、やわらかく。


それから、ほんのわずかに、唇へ。


深くはない。

けれど、昨夜の続きのように、自然に重なる。


呼吸だけが、近い。


一瞬だけ、指が頬に触れる。

そのまま離れる。


扉が閉まる音が、静けさの中に沈む。




目を閉じたまま、

さっきまで触れていた場所に、まだ熱が残っている。


唇の輪郭。

指の重さ。

背に回された腕の感触。


断片が、ほどけずに残る。




ふと、息が乱れた瞬間を思い出す。


名前を呼ばれて、それだけで、身体がほどけていったこと。

触れられるたびに、音のように重なっていった感覚。

言葉は、ほとんどなかった。

それでも、確かに満ちていた。




ゆっくりと目を開ける。

あの青い瞳が、まだ視界のどこかにある気がする。




翠は静かに起き上がり、バルコニーへ出る。


初夏の光が、まっすぐに差し込む。

京都が、こんなにも明るい場所だったのかと、初めて思う。




シュガーのペットカメラのアプリを開く。


画面の中で、ぬいぐるみと遊んでいる姿。

その動きが、やけに確かなものとして胸に落ちる。


「……迎えに行く」


小さく、呟く。

指先で、画面をそっとなぞる。




そのとき、音が浮かぶ。

まだ形にならない旋律が、内側から静かに流れ出す。


ピアノが弾きたい。

久しぶりに、はっきりとそう思う。


──そして、どこかに、笛の音。


気配だけが、重なる。


音は、まだ形にならないまま、残っている。




午後、翠は神代の研究室を訪れた。


「来たか。身体はどうや?」


「大丈夫です。ご心配おかけしました」


軽く言葉を交わしながらも、視線は自然と机の上へ向かう。




「あの石なんですけど……翡翠じゃないんですか」


神代は、わずかに笑って首を振る。


「いや、多分やけど……エメラルドやな」


軽い調子のまま、その言葉だけが静かに沈む。




「……覚悟は、できたんやな」


「はい」


翠は一度だけ間を置く。


「……どこかで繋がっている」


それ以上は言わない。

言葉にしきれないまま、そこに置く。




「簡単やないな」


神代はそう言いながらも、目を細める。


「でも、そこまで見えたんは大したもんや。一つずつや」


少しだけ空気が緩む。




「石、出してみ」


翠はポケットから取り出す。

掌の中で、わずかに重みを持つ。




「封の解き方は?」


「……わかりません」


「せやろな」


神代は椅子にもたれ、ゆっくりと言葉を置く。


「誰かが、そのまま残したい思ったいうことや。」


「解くなら、その人間のところまで降りるしかない」




封をした人の、気持ち。


その言葉に触れた瞬間、記憶が静かに揺れる。


──受け取った。

──忘れぬ。


ロレンツォの声。


「……それでいい」




ふと、昨夜の感触が重なる。


呼ばれた名前。


重なった呼吸。


左耳に触れる。


「あ……」




「気づいたか」


神代の声が、わずかに低くなる。


「ほな、触れてみ」




翠は石に手を伸ばし、目を閉じる。


次の瞬間、光が溢れる。


音ではない声が押し寄せる。


姿、記憶、感情が、境界なく流れ込んでくる。




そして最後に、


内側で、何かが応える。




「……っ」


翠の呼吸が、わずかに乱れる。




神代が、眉をひそめる。


「……ちょっと待て」


視線が一点に止まる。


「それ、なんや」




翠も振り返る。


「え……?」




床の上。


小さな影。




一歩、近づく。




「……シュガー?」




目が合う。




小さく、鳴く。




「……みゃあ」


まだ、終わっていない。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


静かなまま、次が始まります。

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