第31話 戻る場所
呼ばれた声には、理由があります。
荒い息のまま、翠は苦しげに横たわっている。
そのそばへ、エリーは迷いなく駆け寄った。
翠の手。
強く握られたままの、緑の石。
エリーは、そっとその手を石ごと包み込む。
触れた瞬間、
石の奥のざわめきが、わずかに静まる。
神代は、息を詰める。
——あれに、触れても平気なんか。
「翠」
低く、呼ぶ。
「……俺だ」
反応はない。
「どこにいる?」
その声は、届かない。
エリーは、翠の耳元へ視線を落とした。
緑の石が光る。
「あ……」
わずかに、口元が緩む。
「大丈夫だ」
小さく呟き、
そのまま、そっと耳元にキスを落とす。
そして、囁くように、声を重ねた。
「翠」
「……こっちだ」
そのまま、身体を支えるように抱き寄せ、
ゆっくりと上体を起こす。
窓から、やわらかな風が入る。
どこか甘い、花の香り。
「いい香りだな」
「……これ、俺が一番好きな花なんだ」
少しだけ笑う。
「お前が起きてたら、絶対言わないけど」
ポケットから、鈴蘭を一輪取り出す。
そっと、翠の胸元へ置く。
「小さい頃から、好きでさ」
「パリに行っても、やっぱりこれだった」
指先が、ほんのわずかに震える。
「……また、戻ってきてくれ」
「今なら、ちゃんと、言えそうなんだ」
翠の呼吸が、わずかに乱れる。
「……っ」
エリーは、その変化を逃さない。
耳元で、静かに歌い始める。
谷の底、風に揺れる木が一本。
泣くつもりなんてなかったのに、
その影を見つめるだけで、胸の奥がほどける。
枝に止まった小鳥は、
言葉にならない痛みを、
そっと歌にしてくれる。
小川の水音は、
涙を行き場のないものにせず、
静かに流れる場所へと連れていく。
その旋律のまま、声を落とす。
「翠」
わずかな間。
「……お前の行き先は、俺だろ?」
翠の指が、かすかに動く。
呼吸が、ひとつ乱れる。
まぶたが、震える。
そのまま——
ゆっくりと、開いた。
背中が、あたたかい。
包まれている。
その感覚だけが、先に戻る。
もう一度、まぶたが揺れる。
視界が、少しずつ結ばれていく。
目の前に、エリーがいる。
「……エリー?」
かすれた声。
涙が、頬を伝う。
エリーは、何も言わずに、その涙に触れた。
そして、そのまま、静かに唇を重ねる。
翠は、目を瞬かせ、掠れた声で、
「……なんで、ここに」
言葉の途中で、
エリーの指が、頬に触れる。
「あの〜」
場違いな声が、割り込む。
「お取り込み中、すまんのやけど……
ちょっと脈、見させてもらってええ?」
神代だった。
エリーは、しばらく動かない。
「……ほんまに」
翠は、小さく笑った。
「大丈夫だよ」
「彼は——」
言いかけて、ふと止まる。
「……神代さん?」
「なんで、点滴……?」
「え?」
神代は肩をすくめる。
「言うてへんかったっけ。元々、医者やねん」
スマートフォンを差し出す。
「ほら、紗英さん。心配しとるから、一言」
翠は受け取る。
「……翠です」
向こうで、安堵の声が弾む。
「よかった。エリーさんも、もう着いてるのね」
「また、二人でいらっしゃい」
通話を切る。
ふと、翠はエリーを見る。
少しだけ、言葉を失う。
どこか——変わっている。
責任と、自信。
静かに増した、何か。
「……エリー」
エリーは、軽く笑う。
「なに」
「この石……」
翠は手の中を見る。
「どうしたの?」
「え?」
エリーは、当たり前のように石に触れている。
「……これ」
「僕の家の護石だ」
さらりと言う。
後ろで、神代が吹き出す。
「やっぱりかあ……」
「翡翠ちゃうと思ってたんや」
「結晶、全然ちゃうしな……エメか……」
PCに向かいながら、ぶつぶつ呟く。
「触って、大丈夫なの?」
翠が聞く。
エリーは少しだけ首を傾げる。
「大丈夫って?」
「……これ、家族みたいなものだよ」
翠は、声を出して笑った。
エリーが目を細める。
「お前が、そんな風に笑うの、初めて見たかも」
そのまま、また軽くキスを落とす。
神代は、ため息をつく。
「……いや、ほんま」
「興味深い話は山ほどあるんやけどな」
「さすがに、これ以上は入りづらいわ」
立ち上がる。
「今日はもう帰り」
「身体は問題なさそうやしな」
「報告は、また後日や」
エリーは頷く。
「ありがとうございます」
翠を支えながら、立ち上がる。
二人は、そのまま部屋を出ていく。
神代は、その背中を見送った。
ふと、目を細める。
二人の周りに、微かな光が揺れている。
「……精霊、か」
小さく呟いて、首を振る。
「いや……そんなもん、伝説やろ」
それでも——
鈴蘭の香りだけが、静かに残っていた。
ここだ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
その場所に、辿り着きます。




