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第30話 僕の翠

来るべきものは、静かに現れます。


すいの意識が途切れてから、二時間が過ぎていた。


神代は、静かに翠の脈を確かめる。


規則的だ。

乱れはない。

呼吸も浅いが、落ち着いている。


身体としては問題がない。

だが——どこかが、深く沈んでいる。


「……意識だけ、深く潜っとるな」


呼びかけても反応はない。

まぶたは、わずかにも動かない。


神代は一度だけ目を閉じ、状況を整理する。


ここからでは、すぐに運べない。

人もいない。


スマートフォンを取り出す。


「悪い、今すぐ来てほしい」


位置情報を送る。

大学の助手と、もう一件。


少し間を置き、もう一度発信する。


「……久しぶりやな。ちょっと頼みがある」


簡潔に状況だけを伝える。

搬送の準備ができる人間を連れてきてほしい、と。

通話を切る。


神代は、再び翠のそばに戻った。


静かだ。

呼吸の音だけが、かすかに続いている。


「……ほんまに、深いとこ行っとるな」


地面に腰を下ろし、背中を木に預ける。

視線は、翠から離さない。


時間の感覚が、少しずつ曖昧になる。


その間も、神代は何度か脈を取り、呼吸を確認する。

同じ動作を、繰り返している。


医学を修めていた頃の癖が、こういう時に出る。


「……身体は、持つ」


だが、それで安心はできない。

問題は、そこではない。



山からの搬送は、思った以上に時間がかかった。


研究室へ運び込み、ベッドに寝かせる。

すぐに点滴の準備に入る。


手際は慣れている。

迷いはない。


針を刺す。

透明な液体が、ゆっくりと落ちていく。


神代の視線は、翠の手に落ちる。


握られている石。

緑色の翡翠。


——いや。


「……ちゃうな」


ルーペを手に取る。


机のライトを寄せ、石の表面を覗き込む。


結晶の走り方が違う。

翡翠特有の繊維構造ではない。

均質すぎる。

だが、人工物とも違う。


「……これ、なんや」


指先に、わずかな震えが走る。


見たことがある。

どこかで。


記憶を探る。


古代遺跡。

沈んだ神殿。

論文の断片。


「……まさか」


言葉にはしない。

だが、仮説がゆっくりと浮かび上がる。


もしこれが、単なる装飾品ではなく、何かを“封じる器”だとしたら。


神代は、ゆっくりと顔を上げた。


翠の様子が変わっている。


呼吸が浅い。

額に、細かな汗が滲んでいる。


「……あかん、深く行きすぎとる」


すぐにスマートフォンを手に取る。


コール音が鳴る前に、相手が出た。


「あら、透ちゃん?」


柔らかな声。


「どうしたの?」


「紗英先生……ちょっとまずいかもしれません」


言葉を選びながら続ける。


「三時間近く、戻ってきません。身体は安定してますけど……意識が」


短い沈黙。


「……そう」


落ち着いた声だった。


「大丈夫よ」


神代は一瞬だけ、黙った。


「翠なら、大丈夫」


「自分で、入ったのよね?」


「……はい」


「じゃあ、戻るわ」


静かに、しかし確信を持って言われる。


「名前を呼びなさい」


通話が切れる。


神代はしばらく、そのまま立ち尽くしていた。


それから、ゆっくりと翠のそばに戻る。


「……翠くん」


一度、呼ぶ。


返事はない。


「翠くん」


もう一度。

それでも、変化はない。


神代は椅子に腰を下ろし、PCを立ち上げる。


石のことが、頭から離れない。


データベースを開く。

古代遺物の記録。

沈没遺跡。

宗教的器具。


検索を重ねる。


「……もし、これが……」


言葉が途中で止まる。


確証はない。

だが、繋がり始めている。


その時、ドアがノックされた。


「神代先生、九条さんをお訪ねの方が……」


「ええよ、通して」


顔を上げる。


——空気が、わずかに変わった。


入ってきたのは、見慣れない男だった。


プラチナブロンドの髪。

透き通るような青い瞳。

整いすぎた輪郭。


静かなのに、目を逸らせない。


その佇まいには、言葉にできない時間が流れている。

ただ立っているだけで、この場の重さが、わずかにほどける。


神代は、無意識に息を止めていた。


「失礼」


静かな声。


「僕の翠は、どこに」


その一言で、空気の温度が変わる。

冷たくなるのではない。


澄む。


「会わせてくれ」


神代は、一瞬だけ目を細める。


「……あんたが、エリーさんか」


青年は答えない。


ただ、翠の方へ視線を向けていた。


その視線だけが、まっすぐに届いている。


彼は、来た。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


あとは、静けさの中に。

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