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第25話 境を越える

限界は、ある日、越えてしまうものです。


お山に来て、どれくらい経ったのか。


年の初めを祝う日だけ、修行は昼からになった。

それが、七度あった。

 

この頃から、触れる訓練が始まる。


物を並べられる。

ひとつずつ、触れさせられる。


触れた瞬間、何かが流れ込む。

最初は、曖昧だった。


だが、すぐに変わる。

 

触れる。

来る。

 

感情。

 

自分のものではない。

 

苦しい。悲しい。

 

そればかりが、来る。

 

頭が、痛い。

 

触れるたびに、強くなる。


断片だったものが、形を持ちはじめる。

それに伴って、痛みも増していく。

 

逃げられない。

 

来る。

胸に入ってくる。 

耐えきれない。

 


石のところへ走る。


縋り付く。

 

来ない。

 

静か。

何も、来ない。

 

叩いても、返さない。

 

それでも、そこにいる。

 

「逃げないのか」 

声。

 

息が止まる。

 

「逃げろ」 

短く。

 

止まる。


考える。

 


逃げる。

 

「ここから先は、別だ」

 

意味が、重なる。

 

走る。 

石の向こうへ。

 


夜になっても、走り続ける。


転ぶ。

立つ。


また走る。

 

足がもつれる。

息が切れる。

 

それでも止まらない。

 


見つかる。

 

その後のことは、よく分からない。


 


気がつくと、井戸の中にいた。

 

上から、声。

 

「しばらく、ここでやれ」

 

見上げる。

 

月。

満ちている。

 

壁に触れる。

 

来る。

 

声。

 

重い。

多い。

 

数えられない。

 

苦しい。

 

それだけが、ある。 

止まらない。

 

来る。

来る。

来る。

 

頭の奥が、裂ける。

 

逃げ場がない。

 


月が、三度、見えた頃。

 

竹筒。

水。

 

手を伸ばす。

 

触れる。 

一気に、来る。

 

伸びる。

 

青い。

 

立つ。


斬られる。

刻まれる。

細かく。

 

そこに、水が入る。

 

男の声。

 

「若様」

 

「今晩、参ります」

 

止まる。

 

その瞬間。

縄が、降りてきた。


揺れている。


翠は、一瞬だけためらう。


それから、手を伸ばした。

掴んだ瞬間、強く引かれる。

 

「早く、お上がりください」

 

声が、はっきり届く。

 

身体が引き上げられる。

 

視界に光が差し込む。

 

井戸の縁を越えたとき、空気が一気に変わった。

 

地上。

 

そこに、男が立っていた。

 

「若様」

 

低く、抑えた声。

 

「もう、見ていられません」

 

そのまま腕を取られ、背に乗せられる。

抵抗する間もない。

 

初めて、人の背に乗る。 

温かい。 

しっかりとした重さと、確かな呼吸。

 

男はそのまま山を下り始める。

足取りは迷いがなく、一定の速さで進んでいく。

 

翠は背にしがみついたまま、何も言わない。

 

風が、頬を打つ。

 

ふと、振り返る。 

遠くに、あの場所がある。

 

石の気配。

 

「行け」

 

確かに、そう聞こえた。

 

もう、戻らない。

 

背中の温もりが、少しずつ身体に馴染んでいく。

 

風が強くなる。

 

身体が、少し軽くなる。

 

揺れに身を任せながら、翠は目を閉じた。 

まるで、何かに運ばれているような感覚だった。

 

——鳥になったような気がした。


越えてしまった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

その一歩が、すべてを変えます。

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