第24話 霧の山
すべては、ここから始まります。
夜明け前。
祖父母に連れられ、山の奥へ入る。
霧が低く立ち込め、
世界の輪郭がまだ定まらない時間。
朝日は、まだ昇らない。
祖父が言う。
「お前の中には、もうこの山の息吹がある」
少し間を置いて、
「それと呼吸をひとつにしなさい」
ここから、毎日が始まる。
霧の中に座り、耳を澄ます。
風。
木々。
水。
鳥。
何も聞こえない。
ただ、冷たい空気だけがある。
ある日、道を外れた。
下へ。ずっと下へ。
石があった。
何か、聞こえた気がする。
意味は分からない。
なんとなく、蹴る。
乾いた音が返る。
それだけ。
朝は山に籠り、その後は、食事をとる。
白米と味噌汁。
山菜と、少しの魚。
日が落ちると眠る。
電気は少なく、音も少ない。
父も母もいない。
周りには修行をする大人たちがいるが、
言葉はほとんど交わされない。
言われたことだけをやる。
身体が、先に覚えていく。
一年が過ぎた頃。
ある朝、霧の向こうで何かが変わる。
音。
ただの風ではない。
葉擦れの低い音、水の細い高音、
土の湿ったかすかな気配、遠くの鳥の声。
それらが重なり、層になって届く。
初めて、分かる。
聞こえる。
山が、鳴っている。
言葉はまだない。
それでも、音が語る。
翠は、世界と出会う。
二年目が過ぎる。
触れたものから、微かなノイズが走るようになる。
木の幹に触れる。
石に触れる。
古い柱に触れる。
そこに、細かな雑音のようなものが混ざる。
まだ意味は持たない。
ただ、不快で、少し怖い。
それでも手を離さない。
聞こえることの方が、わずかに安心だった。
三年目。
ノイズが、少しずつ形を変えていく。
触れたものが、それぞれ固有の響きを持ち始める。
木には木の音があり、
石には石の重い響きがある。
古い道具には、触れた瞬間に別の気配が残る。
それはまだ曖昧で、断片的だったが、
確かに“何か”がそこにあると分かるようになる。
この頃から、言葉も少しずつ増えていく。
ある日、またあの石のところへ行く。
今度は、蹴らずに触れる。
その時、声がする。
「ここから先は、別だ」
意味は分からない。
だが、その言葉だけが残る。
四年目。
音の向こうに、像が広がり始める。
月の光。
笛の音。
白い猫。
遠くの屋敷。
誰かの横顔。
どれも断片で、繋がらない。
それでも、感情だけははっきりと流れ込んでくる。
温度。
重さ。
言葉にならない何か。
目の前の世界の向こうに、
もう一つの層があると気づき始める。
あの石が言っていた言葉。
楽しい。
これが、そうなのかもしれない。
だが、変わる。
触れたものの中に、冷たいものが混ざる。
暗い。
光がない。
同じように触れても、違う感触が流れ込んでくる。
痛い。
また、石のところへ行く。
蹴る。
「逃げたらどうだ」
その言葉で、動きが止まる。
「暗くて冷たいは、苦しい、だ」
言葉が、少しだけ繋がる。
「今なら、逃げられる」
逃げる。
考える。
逃げる、とは何か。
ここを、出るということか。
初めて、その意味が重なり始める。
もう、知らなかった頃には戻れない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
最初に触れたものは、ずっと残ります。




