第20話 花の奥、まだ名にならぬもの
触れても、まだ名にはならないものがあります。
ロレンツォが滞在して、幾日かが過ぎた。
戦は起こらず、
空は高く、風はやわらかい。
蘭は、よく山へ入った。
ロレンツォを連れて。
草や花に触れる時だけ、
その目が、ほどける。
言葉は少ないが、指先が語る。
ロレンツォは、それを見ていた。
——あの眼が、自分に向けられたなら。
ふと、そう思う。
ある日。
蘭は、山の奥へと導いた。
人の気配の消える場所。
祈りと、薬草と、沈黙。
そして、牡丹。
大きく、風に揺れている。
ロレンツォは足を止める。
「……これが」
初めて見る花だった。
蘭は、その前に立つ。
「これが、好きだ」
短く。
指先で、花弁に触れる。
「強い。遠くからでも、見える」
少し間。
「……迷わぬ」
ロレンツォは、その横顔を見ている。
理解はできない。
だが、目が離れない。
空が、わずかに暗くなり、風が変わる。
雨。
蘭は振り返る。
「来い」
それだけ。
薬草小屋。
雨音が、外を満たしている。
閉じた空間に、香りが残る。
牡丹の甘さ。濡れた土。
ふたりは、向かい合う。
言葉が、続かないまま止まる。
ロレンツォが、先に口を開く。
「……あなたは」
探す。
「遠い」
蘭は、目を細める。
「だが——近い」
その言葉に、蘭の呼吸が揺れる。
沈黙。
ロレンツォは手を伸ばす。
触れる直前で、止まる。
蘭は、避けない。
そのまま、自分から、わずかに距離を詰める。
——触れる。
一瞬。
離れる。
「……何をする」
低く。
だが、拒まない。
ロレンツォは答えない。
ただ、もう一度見る。
「……お慕いしています」
小さく。
蘭は、視線を外す。
「……言葉が、軽い」
だが、頬にわずかな熱。
「お前の国では、どう言う」
ロレンツォは迷う。
「……I lieb di」
蘭は繰り返す。
「……良い音だ」
少し、間。
蘭の方から、近づく。
額に、触れる。
ほんの一瞬。
「——忘れるな」
その距離のまま。
唇が触れる。
雨音が、すべてを包む。
その夜、ふたりは同じ時間の中にいた。
言葉は、ほとんど使われなかった。
ただ、触れたものだけが、残る。
まだ、名にはならない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
まだ、言葉にはなっていません。




