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第19話 名をなぞる

名が、かたちを持ちます。


朝の屋敷は、いつになくざわついていた。


庭に出ると、人が輪を作っている。

その中心に、青い瞳。


ロレンツォだった。


誰も近づかない。

興味と警戒が、同じ距離で止まっている。


蘭はそのまま輪の中へ入った。


「……昨夜の」


ロレンツォが静かに頭を下げる。


「ロレンツォと申します」


その時、背後から声がかかる。


「蘭。この者をしばらく預かる。世話を任せる」


振り返らず、


「承知」


それだけ答えると、蘭は顎で示した。


「来い」


人の気配が、自然に道を開ける。


離れへ向かう途中も、視線はついてくる。

珍しさと、不安と、わずかな好奇。


ロレンツォの後ろには、付き人が一歩距離を保っていた。


見張りか、と蘭は思う。

それ以上は、何も言わない。


部屋に通し、荷を置かせる。


「……外に出る」


少し間を置いて、


「蘭だ」


初めて名を落とす。


ロレンツォの呼吸が、わずかに止まる。


夜とは違う。

光の中で、輪郭がやわらぐ。

それでも視線は外さない。


街に出ると、人々が頭を下げる。


「若様」


声が重なる。


ロレンツォに向けられたものではない。


蘭は歩みを変えず、


「客人だ。構うな」


それだけ告げる。

空気がほどける。



山へ向かう道。

風に揺れる紫。


「あれは、何ですか」


ロレンツォの声に、蘭は振り返らない。


「見たいか」


少し間を置き、


「来い」


花の前で、ロレンツォは懐から紙を取り出す。


羽と、黒い液を取り出す。

迷いなく、線を落とす。


蘭はその手元を見ていた。


「……それは何だ」


「羽ペンです」


「墨か」


「似ていますが、違います」


言葉は、噛み合わない。

だが、手は止まらない。


線が、花を写していく。


蘭の目が、わずかに揺れる。


ロレンツォは、羽ペンを差し出した。


「書きますか」


蘭は受け取り、しばらく見つめる。


重さを確かめるように。


そして、紙に触れる。


——蘭

その一文字だけが残る。


風が吹き、花が揺れる。


ロレンツォは、それを見ていた。

言葉にはしない。

ただ、そこにあるものを見ていた。


名だけが、残る。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


まだ、言葉にはなっていません。

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